2024.11.17
聖書箇所:出エジプト記21章33~22章17節
説教題 :事を神の御前に出す
説教者 :片岡智和師
1.十戒と実生活
十戒が与えられた後、十戒を実生活のトラブルに適用していく規定が語られていきます。実際にあった盗みや預けた物の紛失、男女のトラブルなどに対してどう対応したのかが基準として記されています。悪人であっても可能な限りその命は守られます。盗みは二倍にして返すこと。家畜や火事の過失で損害を与えた際は償いをするなどが書かれています。
盗ったものを四倍にして返すと言った人が新約聖書に登場します。ザアカイです。金銭の盗みであれば二倍で良いのですが、脅したり騙したりした行いも含めて四倍で返すと告白したのかもしれません。ザアカイは律法の規定に従う以上に、喜んで主に従い献げる信仰の決心をしているのです。マリアの夫ヨセフは身ごもったマリアをこっそり逃がそうとしました。ヨセフは死刑になってしまうマリアを庇おうとしたのです。聖書はヨセフを「正しい人」と描写しています。律法の義務以上に喜んで従っていく人、罪を覆い救おうとする人を神様は喜ばれるのです。先週の箇所の21章32節には死んだ奴隷の代価は銀50シェケルとあります。ユダがイエス様を売った値段です。ここにキリストの象徴があります。キリスト教は「赦し」の宗教とも言われることがあります。償いの規定は、このことで赦しなさいとの規定でもあるのです。
2.神様が知っている
トラブルの中で本当のことがわからない状況もあります。主張が食い違う時です。片方が嘘をついているか、何らかの誤解があって主張が異なる場合もあります。その時には神に真実を誓い、神の前に持ちだすことが書かれています。「神の前に誓う、神の前に持ちだす」それは形としては裁判官の前で誓い、判断を委ねるものだったのかもしれません。でもその誓いは人ではなく神の前に誓うことになるのです。神様は全てを知って正しく報いられます。自分の行いについても、他の誰かの行いも、神様は正しくさばかれるのです。自分の言動は神の前にいかなるものだろうか。神様が今、隣におられると想像してできない言動はすべきではありません。神とともに生きると告白するなら、神の前に潔白だと言える生き方しかしてはならない。それが本当です。しかしそれができないから、イエス様が世に来てくださったのです。イエス様は神の律法を完全に守り成就してくださいました。ここに、聖く義なる神様の愛が示されているのです。
3.十字架の償い
神様の前に人が裸で出るなら全ての人が有罪であり、そのさばきは「死」です。モーセの律法には、何らかの負い目があれば、それに償いをして赦されることが書かれます。赦しには「償い」が欠かせないのです。ただ水に流せばよい、そういう考えはないのです。その償いが十字架の死です。死を持って償う、それをイエス様は全ての人のためになしてくださったのです。
償いには「赦される」保証が同時になければ難しいものです。誤っても赦されず裁かれるなら、そのまま死ぬか、生きる可能性にかけて隠し、逃げる選択しかないのです。償いの方法と、赦される方法が定まっていることはとても重要です。償う人はその規定に従って償い、償われた方も規定に従って赦さなければならないのです。されたことを心に覚えて責めてはならず、そこで赦して終わりにしなければならないのです。神様は正しい方で、やっぱり赦せないとは考えません。契約に基づいて判断される正しいお方であるからこそ、十字架の救いは確かな保証なのです。私たちが世においてできること、重要なことは、償いの方法、キリストの十字架と復活を伝えることです。
償いと赦しを見てきました。罪には償いが、償いには赦しが、赦しにはいのちが与えられました。感謝してキリストの恵みを受け取りましょう。
2024.11.10
聖書箇所:出エジプト記21章1~32節
説教題 :義と和の秩序
説教者 :片岡智和師
今日の箇所からは十戒を原則とするなら、細則にあたる具体的な規定が記されています。そこから神様の義と和の秩序に目を向けていきたいと思います。今日は三つの分野の規定が記されます。奴隷制。死刑に値する罪。死刑以外の罪です。
1.奴隷制
現代人にとって「奴隷」は非人道的な響きのある言葉です。奴隷には「しもべ」との意味もあり、主人のもとで働く人、といった意味合いがあります。律法の規定の最初に奴隷制、しかも奴隷の解放に関して記されているのは珍しいものでした。そこには神様の二つの意図があります。一つは、イスラエルは神様によって奴隷から解放された。二つ目は、人はイエス様によって罪の奴隷から解放される。
神様のご計画は、虐げられる奴隷状態からの解放、そして自由人として神の民になることです。イスラエルはエジプトで奴隷として過酷な労働が課されていました。そこから神に救われたのです。だからあなたはそうであってはならないと神様は求めています。2節から6節には男奴隷のことが書かれています。男奴隷は7年目に自由の身となると規定されています。4節の奴隷同士の結婚に関する規定を見ると、原則として奴隷となった時の状態で去るというものがあります。独身で来たなら独身で、妻があれば妻とともに去るのです。しかし男奴隷が「主人と妻子を愛しここで仕えたい」と願えばそこで生涯仕えることができました。奴隷であっても主人のもとで家庭を築くことができるのです。7節からは女奴隷の場合です。女性は7年目に自由になる規定はありません。それは女奴隷となった女性を守るための規定でした。女奴隷は主人またはその息子の妻となるのが想定されています。その女性に対して一度負った責任を自分勝手に放棄してはならないとの規定なのです。目的は女奴隷が主人の気持ちで不当な扱いをされないためです。
2.死刑に値する罪
死刑に値する罪は三つです。一つは殺人。二つ目は父母を打つ・罵る者。三つ目は人を誘拐する者です。いのちは神のものです。父母は神の代理者であり、その領域を侵してはなりません。事の重さを示し、絶対にやるな、と警告しているのです。
殺人は事故と故意の殺人があり、故意の場合は死罪です。しかし「神の御手によって事があった」、つまり事故でそれが起きた場合は復讐されることのないように、逃れ場が規定されましt。後にイスラエル国が出来たときには「逃れの町」が作られました。逃れ場はイエス・キリストのモデルです。罪を犯してしまった人は、イエス様のもとへ逃げ込むことで守られるのです。それは、罪とさばきを肩代わりし、ご自分のいのちを差し出すほどに愛しておられる神の守りです。17節の「父や母をののしる」とは、心から不幸を願い望むことです。父母を打つというのも単純な親子喧嘩ではなく、侮辱を込めて親を否定し打つことです。親を建てた神の権威に対する反抗となるのです。
人を誘拐することは当時常に見られたことでした。神様は当時各所で見られた誘拐を死罪と定めたのです。前後に親子のことが書かれているのを見ると、誘拐は神様が与えた親子関係を断絶させる大罪だという理由があるのかもしれません。
3.死刑に値しない罪
死刑にならない罪とはおもに傷害罪です。人に障害を与えた場合にはそれに見合った賠償をするのが原則となっています。総じて言えば、したことに対する責任を負いなさいということです。それは奴隷と主人であっても同じです。奴隷を死なせたのがたとえ主人であっても復讐されなければならないし、傷害を負わせれば賠償しなければなりません。24節には「目には目を、歯には歯を」と記されています。やられたことの復讐はやられた分に留めなさいというのが既定の趣旨です。復讐の抑止の規定なのです。イエス様はこの箇所について、侮辱されてもやり返すな。復讐するなと教えました。復讐ではなく「義」を行いなさいと勧めるのです。イエス様はさらに、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われます。例え敵であっても愛し祝福を祈るほどの隣人愛です。
神様は罪を犯した人をさばく権利を持っていました。しかしその権利を放棄するようにして、イエス様を世に遣わし、罪を肩代わりして救ってくださいました。まさにそれは敵を愛し、迫害する者のためいに祈る行いでした。
出エジプト記にある神の規定は、当時の時代に照らして人格・人権・尊厳を大事にするものでした。しかし神様の最終目的は、自分の権利を捨てて互いを愛する人間社会です。神様は義を行いなさい。平和をつくりなさいと語りかけておられます。今そのために何ができるでしょうか。
2024.11.3
聖書箇所:出エジプト記20章1~26節
説教題 :神の律法
説教者 :片岡智和師
1節には「神はことばを告げた」と書いてあります。十戒はモーセの十戒とよく言われますが、十戒は「神のことば」です。神様が神のことばとして告げた、神の律法です。「民は見て身震いし、多く離れて立っていた。・・・『恐れることはありません。神が来られたのは、あなたがたを試みるためです。これは、あなたがたが罪に陥らないよう、神への恐れがあなたがたに生じるためです」(18~20節)。今まで民はモーセに不平を言っていました。しかし、真に神のことばを聞くなら、神への恐れが生じるのです。律法の役割は聞くたび見るたび自分の罪が示されてキリストに立ち返らせ、悔い改めに導くことです。養育係としての十戒を見ていきましょう。
1戒.わたしのほかに神があってはならない
神の他に自分の主とするものをもってはなりません。その範囲は宗教に限らず、お金や人などあらゆるものが含まれます。真の神と自分の間に何かを割り込ませる状態が、他のものを神とすることです。
2戒.自分のために偶像を造ってはならない
1戒と似ていますが、真の神を神としつつ、神を汚す罪だと言えます。自分の都合の良いように神のイメージを作り上げてはいけないというのが、2戒です。また、自分が誰かにとって神より偉い立場に置かれる時、偶像崇拝の罪を犯させることになります。
3戒.あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない
「名」を用いることの意味は、その人の権威にかけて行われることを保証することです。みだりは無駄・嘘・空虚といった意味です。「聖書でこう言っているから」と言って自分の思いを主張しているに過ぎないなら、神の名を自分勝手に利用するという大変な罪を犯しているのです。神の名を使って嘘を吐くことになるわけです。
4戒.安息日を覚えて聖なるものとせよ
聖なるものとするとは「その日を取り分けること」です。労働とは畑を耕したり家を建てたりなど、生産する働きです。神様は七日目の安息になにをなさったのでしょう。生き物と人を造った六日目、その翌日、神様は完成した世を味わい楽しむ日としたのです。さらに言えば、人との交わりの日として七日目を取り分けたのです。安息日は神様と交わり、神の恵みを楽しむ日です。それは新天新地、永遠の安息のひな型です。
5戒.父と母を敬え
ここからは対人関係の律法になります。対人における第一の戒めは「父母を敬う」ことでした。次の「殺してはならない」より先にきているところに、その大切さが伺えます。6戒以降の内容全ての根源に位置する戒めが良心を敬うことなのです。これまで神様は子孫に神を伝えよと命じてきました。子に神を伝える時、親は子に神の権威を代表する存在になるのです。子に親を敬う責任があるとともに、親にはより重大な責任があるのです。信仰継承という、子に神を伝える宗教教育の戒めが「父と母を敬え」なのです。親を敬っているか。また子に敬われる親であったか、自らに問う必要があるでしょう、
6戒.殺してはならない
これは当然の戒めです。殺してはならない理由を道徳ではなく、「神の律法」と受け止める必要があります。なぜ人を殺してはならないのか。それは「すべての人は神のかたちに似せて造られた」からです。その人を造ったのは神様です。故にそのいのちを傷つけることがあってはならないのです。人は人を殺すことができます。お前はダメだ、失格だ、価値が無い、そう伝えて殺せるのです。
7戒.姦淫してはならない
主に不倫関係が想定されています。男女は結婚すると霊的に一人の人として見なされます。その関係を破壊する人格的霊的な殺人とも言える暴力行為が関心なのです。イエス様はこれを肉体的な問題に留めず、心も問題にしました。また神様は偶像崇拝は神に対する姦淫の罪だとして厳しく接します。それは、人と人の結婚関係に象徴される深い愛の交わりの思いを、神様が人に持っておられるからなのです。
8戒.盗んではならない
「取る権利のないものを取ってはならない」ということです。物に限らず、手柄を横取りしたり、正当な評価をしない等、他の人が正しく得るはずのものをなかったものにする、あらゆる行為を戒めます。
9戒.偽りの証言をしてはならない
周囲の人に誤った理解を与える証言、それが偽証です。日常生活は意外と偽証が多いです。例えば想像と憶測から決めつけて悪く人に話す事も偽証です。私は知らない。あの人も悪いのだと責任転嫁をする。あの人は悪くないと不当に庇うこと等もそうです。罪ある人間にとって真実は剣にもなります。しかし真実を語るところに神様は働いてくださるのです。
10戒.隣人の家・ものを欲してはならない
包括的な内容になっています。6~9戒のすべてに通じる内容です。欲しがるとは貪欲です。10戒は、神が与えてくださったものに満足することと、人に与え与えられる関係の健全性を要求します。神様は誰かに与えるためにものを持たせることもするのです。また誰かから受け取るために貧しい生活に置かれる人もいるのです。神の民はその営みの中で、与え与えられる交わりにおいて愛を現わし、神を賛美するのです。それは御国の光景です。
2024.10.27
聖書箇所:出エジプト記19章1~25節
説教題 :わたしの宝
説教者 :片岡智和師
今日は旧約聖書においてとても大切な契約・シナイ契約が神様からイスラエル人に持ちかけられる箇所です。神様の契約には「聞き従うなら」と条件が付いています。本来、神様のものである世界は神様に聞き従うのが当たり前です。神様の契約は本来当たり前になされていなければならない事柄に対して、それを出来ない存在に祝福を与えようとする、恵みの契約です。
神様がこの契約の中で与えようとしている3つの祝福が書かれています。1.わたしの宝とな
る。2.祭司の王国となる。3.聖なる国民となる。今日はこの3つの祝福を基本にして、神様の御
言葉を聞いていきたいと思います。
1.わたしの宝となる
一つ目は「あなたはわたしの宝となる」祝福です。神様が言われた「わたしの宝となる」とは、ただの宝物
ではなく最上の最も価値ある宝のことを言っています。一定の価値があって「宝」と一括りにされてしまうようなものではなく、「これこそわたしの宝です」と言うような大切な存在。それがここでの「宝」です。でもそれには条件がありました。「神の声に聞き従う事」です。この条件は8節「私達は主の言われたことをすべて行います」との誓いや、10節の「衣服を洗わせよ」との命令の中で、私達人が神様の言葉に従い、悪から離れて「聖い存在」でなければならないことを示しています。では神様が人に注ぐ愛は不安が伴う、愛されるように頑張っていなければならない物なのでしょうか。違います。それは最後に確認したいと思います。
2.祭司の王国
次に二つ目の祝福「祭司の王国となる」です。祭司とは神様に動物や穀物などの生贄を捧げ、神と人の関係を取り持っていく役割の人です。「祭司の王国」の「王」とは神様のことです。神様に選ばれた民であるイスラエルはこの世に対して、神と人を取り持つ「祭司の国」となることが期待されていました。彼らが神様の言葉に従って生きることで、この世に対して神様を証し、神様を知らない世の人と神とを繋ぎ関係を取り持っていく役割を期待されていたのです。
それはとても尊い役割でした。しかし思い違いしてはならないのは、神様の前に他の人々よりも偉く、神
に違い種族だとかそういうものではないことです。神様の前には祭司であっても軽はずみに神様に近づくことは出来ません。自らを聖別しなければならないのです。祭司という大事な立場に置かれていても自分を人より偉い特別な存在だと思い違いしてはいけないのです。
この祝福の強調点は「祭司となる」ことにあります。ではイスラエル人ではないクリスチャンの私達はどういう立場にあるのでしょうか。新約聖書にはこう書かれています。「神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。」(Ⅰペテロ2章5節)私達は自分自身を捧げる祭司です。自分を捧げるとは神に従うことです。自分が神に従う時、礼拝を捧げる時には、祭司的役割が含まれるのです。世に神様を証しし、神を知らない世の人の代わりに自分を捧げとりなしていく役割です。悪に満ちたソドムとゴモラが滅ぼされようとしている時、アブラハムは神様に「そこに正しい人が10人居たならば町を滅ぼさないでください」と祈り神様はそうすると言いました。結局町には10人も正しい人はいませんでした。でも居たならば、そのたった10人が居るだけで町全体をとりなすのです。クリスチャンはその正しい10人の人になる存在なのです。
3.聖なる国民
三つ目に「聖なる国民となる」祝福です。この祝福は神の国の住人となること、国籍を神の国に置くことです。聖なるとは、この世にあって神の国の住人と区別されることです。神の国は完全な神が治めるので正しく治められ、全ての人が充足する国となります。そこには愛と平和が実現します。神に愛され、神を愛し、互いを愛する神の国。その住人となる、自分自身もそのような人になる。それが聖なる国民となることです。ただ国籍が変わるだけではなく、自身が聖なる者とされる。イスラエル人達が本当に神のことばに従っていくなら、それが実現するのです。でもそれは適いませんでした。彼らは聞き従いますと言って間もなく神を侮り、神の顕現に伴う恐ろしくも神秘的なものを目の前に(16節)、自分の興味や好奇心によって神が顕現されるシナイ山・神様の領域に足を踏み入れようとしました。
結局、神様に選ばれたイスラエル人達も他の誰も「主のことばに聞き従う」ことが出来ない。それが旧約聖書の時代に明らかにされたことでした。新約では新しい契約が与えられました。すなわち、自らの罪を認めキリストの死と復活を信じる者は全ての罪が赦され、神の子・神の民となる契約です。先ほど読んだ1ペテロの続きにはこうあります。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です」(Ⅰペテロ2章9節)。キリストを信じ受け入れた人はこのような存在なのです。キリストにあって神様の宝、神の祭司、神の国民なのです。神様の宝、神様の愛されるためにはどうしたら良いのでしょうか。
何をしなければならないことはない。キリストを信じることです。イエス様が世に来られたのはなぜですか。人々を救うためです。つまりこうです。ローマ5章8節「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」。神の愛とはどのようなものかと問いました。神の子となり神の宝となるにはキリストを信じるという条件はあります。でも神様は人が神に逆らい汚れた罪人である時から、そのいのちを差し出すほどに愛してくださったのです。
そしてキリストを信じる時、神様は「貴方はわたしの宝だ」と喜んでくださるのです。ただ貴方という存在を愛するお方です。神様に相応しくなるためでなく、愛されている故に神・主に従う事を望んでいくのです。キリストを信じる時、神様はあなたを「わたしの宝」だと喜んで下さっています。私達は、互いに神の宝です。
2024.10.20
聖書箇所:出エジプト記18章1~27節
説教題 :勇気ある助言
説教者 :片岡智和師
1.イテロの訪問
モーセの所に舅のイ テロが訪問します。イテロはイスラエルがエジプトを出た事を聞いて、モーセの妻と息子達を送り届けなければいけないと思ったのでしょう。またモーセの様子も知りたかったことだと思います。モーセの息子二人の名が紹介されています。ゲルショム「私は異国に居る寄留者だ」エリエゼル 「私の父の神は私の助けであり、ァラオの剣から私を救い出された」二人の名からはモーセの 信仰が読み取れます。さてモーセはイテロの訪問を喜んで迎えてこれまでの事の次第を語りました。モーセは神様の使命が与えられてから常に、自分には無理だと思う困難と重責を負ってきました。民全体を率いて常に周り に気を配り続けてきたモーセに取って家族との再会、交わりの時間は久しぶりの安らぎの時だったでしょう。その中で、モーセは自分の経験した神様を語り分かち合いました。イテロの応答も信仰的であるとともに、彼の父としての人格が現れています。モーセを労っ たり困難を憂うのではなく、「主を称え主を知った」と言って、神のわざを語るモーセが伝えたい事を受け取めました。 自分の目につく所ではなく、モーセが伝えたい事を受 け取りそれに答えていくイテロの人格です。相手よりも自分を優先すると交わりは難しくなりま す。伝える努力とともに、聴く努力・聴く謙遜さが交わりには大切な物かもしれ ません。イエス様も私達の声を聞いてくださるのです。
2.荷が重すぎる
翌日イテロは、モーセの働きと民の様子を見ていました。モーセが一日中民全体のさばきを行っていました。モーセが民の間でしていたことは、16節「双方の間をさばいて、神の 掟とおしえを知らせる」働きでした。20章以降の律法を見ると生活における様々な具体的トラブル に関する規定があります。そのような生活上のトラブルを全部モーセが処理していたのです。イテ ロは「あなたがしていることは良くありません」「あなたも民も疲れ果て」てしまう。それが、人間的には偉大な指導者・神の使の モーセに対するイテロの見立てでした」。モーセ一人が負うには荷が重すぎる。モーセは責任感が強く、正義感も強い人でした。だからこそ自分がやらなければ、 と頑張っていたのかもしれません。そのために、出来ること以上に背負い込んで潰れそうになっていた のです。責任感や「誰かのために」との思いは良い物です。でも分を超えると自己満足や強迫観 念になります。そうなると、本人も辛く周りも辛くなるのです。モーセはこの言葉を突っぱねることも出来ます。 そうせず助言を受け取るのは、モーセの謙遜です。モーセはここま で神のことばを受け取り、人に語る立場にありました。ここではイテロを通して神様のみこころが示されたのです。それを素直に受け取るのは自分を誇らず、自分の限界を認め、助けを受け入れるモーセの謙遜でした。人は一人ではだめで、助けを必要とするものです。イテロの助言はあなたの荷の 負い方を変えなさい、荷を降ろして助けを借りなさいというものです。
3.イテロの助言
イテロの助言は、一人で負っている荷を分散する方法でした。モー セしか裁きができない現状は、民が神の掟とおしえを自分の物と出来ない現状でもあります。「神の民」として建てられていく時には、全体が神の掟 とおしえを受け取っているのが理想です。それは教会も同じです。全体がみことばに親しみ、 各々が持つべき責任を負い、一つのからだとしてキリストの身丈に成長する。それが、教会につ いてパウロが語る所です。
イテロはその方法として一つ助言しました。「千人の長、百人の長、五十人の長、 十人の長として民の上に立て・・・。小さな事件はみな、彼らにさばかせて、あなたの重荷を軽く しなさい。こうして彼らはあなたとともに重荷を負うのです」(21節)。ともに重荷を負うリーダー達を立てる ことを示したのです。そうすることでモーセは立ち続け民は平安になる。それがイテロの助言の目的です。
イテロの助言とモーセから今日 受け取りたいことは3つです 。
1.謙遜に助言を聞くこと。背負 い込まずに他の人のことばや助けを借りましょう。
2.他の益のために愛の助言をすること。自分の思いで相手を支 配し動かすのではなく、他の人を建て上げ、他の人の益となるために愛の助言をしましょう。
3.自分が負うべき分に応じて、ともに重荷を負うことです。今負っている重荷や、負っていこうと思う重荷があるかもしれません。それらを分に応じて担 い、助け合いましょう。イエス様は私達のために重荷を負ってくださいました。それは 私達の荷を軽くすることでした。
2024.10.6
聖書箇所:出エジプト記17章1~16節
説教題 :掲げられる祈りの手
説教者 :片岡智和師
1.岩からの水
シンの荒野に入ってから一ヶ月が経過しました。彼らは主の命によってある時は留まり、或る時は進み、宿営しました。ところが今日宿営した先には、旅に欠かせない水がありませんでした。主が民を水の無いこの場所に宿営させたのです。約一ヶ月前、やはり水が無いと不平をいったことがありました。その時は水はありましたが苦くて飲めないものでした。しかしそれは飲めるようになりました。苦い水でもそこにあったなら民の反応は違ったかもしれません。今回の不平は悪化しています。4節を見ると「彼らは私を石で打ち殺そうとしています」とモーセは言っています。モーセを殺そうとしたかはわかりませんが、そう感じる程度の争いが起きたのでしょう。モーセに神様は言いました。「あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む」。モーセはその通りに行いました。しかし岩から水が出て飲む描写はありません。大事なのはそこではないということです。「岩を打て、そこから水が出て民はそれを飲む」という約束が大事なのです。第一コリントでは「みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです」と書かれています。モーセが打った岩とはキリストを表しています。その岩から水を飲むとは、キリストの救いを受け取るということです。人の力ではどうしようもない奇跡的な救い。それがキリストの救いであり、信じ受け取ったのがクリスチャンです。そのような神様の働きに期待しましょう。神様はイスラエルを見限らず、回復の道を絶えさせません。しかし神様への背きには背いたことへの責任、裁きはあるのです。その代表的な例がバビロン捕囚でしょう。神様の試みに背き続けても救いは失われません。けれども痛みが伴ってくるのです。
2.アマレクとの戦い
8節から同じ場所でアマレクとの戦いが記されます。この戦いは主を試みたt三への裁きの側面があると言われます。神様は周辺の民を裁きのために用いますし、神様に立ち返る機会ともします。ですから早く立ち返ることが大切です。この戦いで初めてヨシュアの名が出てきます。彼はモーセの次を担う、次世代のリーダーでした。
モーセはヨシュアに「出ていってアマレクと戦いなさい。私は明日、神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます」と言います。モーセが手を高く上げているときはイスラエルが優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になったことが、11節に書かれています。モーセが手を高く上げるそれは祈りの姿勢です。戦っているのはヨシュア率いる男たちですが、その背後に神様の力が働いています。クリスチャンの戦いは、ある時は不安に訴えず黙って見ているという時もあります。でもある時は券を持ち祈りをもって自分たちも戦うという時もあります。実践と祈りどちらも大切です。でも教会は共同体ですから役割分担も生まれてくるでしょう。祈りは重労働な信仰の戦いです。その戦いには支え、ともに戦う人が必要な時もあります。二人もしくは三人で心合わせて祈るのは大きな力です。ぜひ兄弟姉妹と心を合わせて祈りましょう。モーセの祈りの手が掲げられ、戦いは勝利しました。モーセは祭壇を築き「アドナイ・ニシ」と呼びました。意味は「わが旗」です。戦場を支配しておられるのは「主」でした。主は戦い、勝利され、救いを与えてくださいました。キリストの勝利は、水の無い荒野でどうすることもできず死ぬしかない。そこで与えられた水です。神様に目を向けていくために必要なのは、それぞれに神様が与えてくださった恵みを思い起こすことです。主とともに歩む恵みの旅を続けましょう。
2024.9.29
聖書箇所:出エジプト記16章1~36節
説教題 :不信仰な者への招き
説教者 :片岡智和師
1.不平を訴える
イスラエル人は海を渡った後旅を続けました。今日はエリムとシナイの間にあるシンの荒野に入ります。シナイはシナイ契約の場所です。「私 の契約を守るなら、あなたがたはわたしの宝となる」。その契約が与えられる場所に向かって行っている最中です。民もモーセもまだ知りませんが、神様だけがその祝福の契約を予定しておられます。旅を始めて一か月が経ちました。先週、民は水 がない事でモーセを非難し訴えました。今日は、食料がない事で不平を言います。彼らは誰に不 平を言っていますか。2節を見ると、民はモーセとアロンに言っています。では民の不平は 誰に届いたのでしょうかモーセとアロンか。それとも神様ですか。9節「主に対するあなたがたの不平を主が聞かれた」神様です。彼らは気づかないで神様に対して「私は救われなければよかった。あそこで死んでいた方が良かった」と文句を言っているのです。神様は民の訴えを聞いて「天からパンを降らせるからその日の分を集めよ、六日目は二日分集めよ」とモーセに言いました。「これは彼らがわたしの教えに従って歩むかどうかを試みるためである」。その日の分を集めよと命じ神様は民を試すのです。その結果はこの後13節以降から見ます。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る。』」神様は民の不平に答えて肉とパンを与 えられます。神様の愛と忍耐です。エジプトでの数々のしるし、導き、海を渡る救い、水の供給、数々の神の御業を体験してなお、困難を前にして神様を信頼しない。それがイ スラエルの民の、そして私達人の頑なさの実態です。
2.マナの養いと命令
13節からうずらとマナの話になります。民が肉を求めたので神様はうずらを与えました。ここで大事なのはマナです。荒野の40年、民はマナによって養われる ことになります。マナはイエス・キリストによって与えられたいのちのパンの象徴です。マナとは何なのか今でもはっきりし ません。何なのかわからな い知らない食べ物、でも蜜を入れた薄焼きパンのように美味しくそれによって毎日養い続けられ る。それがマナでした。
毎朝外に出ると地面にマナがあり、それを集め頂く。まさに天から の恵みです。モーセは民に命じました19節「だれもそれを朝まで残しておいてはならない」どうしてでしょう か。4節「民は外に出て行って、毎日その日の分を集めなければならない」 その日の分はその日に使い、翌日の分は翌日集める。それが神様の 試みでした。彼らは旅の最中で大所帯です。余裕がある なら備えておきたい。当然の考えです。故にここに神様の試みがあるのです。何を信頼するか試みられるのです。しかし、彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝までその一部を 残しておきました。するとそれに虫がわき臭くなりました。神様が備えるように言っているなら備えてよいのです。前日まで食料に困っていた、明日もマナが降るかわからない。真っ当だと思う理由があげられます。しかしそこに神に背く不信仰の芽が出たのです。六日目の23節モーセは「主の語られたことはこうだ」と改めて神様の命令を確認し、この日は2日分集めるように言いました、7日目はマナを集めないからです。 しかし、27節では「民の中のある者たちが集めに出て行った。しかし、 何も見つからなかった」と書かれています。不安があれば、残すなと言われていても残しておく、与えられれば、集めるなと言われても 集めに行く。人の頑な姿です。4節を振り返ります「民は外に出て行って、毎日、その日の分を集 めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである」。試みの結果は不合格です。
3.天のパンキリスト
28節で主はモーセに「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを拒み、守らな いのか」と言われました。「ある者たちが」命令に違反しま した。でも神様はモーセに「あなたがたは」と語ります。ある者達の背きの罪を神様は、群れ全体 の問題として見られ、責任を負わせています。群れの一部の問題を、私達は自分の物として受け取らなければならないのです。神の民、そして教会は一つの共同体、一つのからだだからです。キリストの十字架とは人類 の罪を自分の物として引き受ける、神の愛です。とりなしの働きです。私達は皆、自分の罪を罪を 犯していないある人に負ってもらった一人一人なのです。それがキリストの福音です。
33節で、子孫がマナを見られるように保存せよと神様は命じました。過越しと種無しパンの祭りの時 から神様は「子孫」を想定しておられました。それは荒野で民が死なず確実に約束の地に行く保 証です。民は 神様のおしえを拒みました。でも神様は忍耐して民と共に居られ、その子孫においても共に居て 下さる。その計画を持っていることをなお明らかにしています。民の務めは神様の恵みの養いを 引き継がせていくことでした。神様は背き続ける人類 に永遠のいのちを与える養いのパン、イエス様を天から送ってくださいました。 私達にはその「キリストの福音」を子孫のために保存し、子孫が見ることができるようにする 務めと責任があるのです。保存先は自分自身です。過去を美化し、目の前の困難に不平を言うことはありますか。人の不安や欲に流されず神様のことばを信頼していますか。他の人の罪を自分のものとしてとりなす、キリストの十字架の道を歩んでいますか。
2024.9.22
聖書箇所:出エジプト記15章1~27節
説教題 :賛美の歌
説教者 :片岡智和師
今日の中心は賛美です。賛美とは神様に感謝すること、神様を喜ぶこと、褒め称えることです。様々な内容の賛美がありますが、共通しているのは聖書のみことばに合致していることです。神様への賛美は歌だけではなく、語る言葉や生活も、神の栄光を現わし神様を賛美する行為です。聖書に記されている神様の姿から、神様の偉大さ、栄光に目を向けたいと思います。
モーセとイスラエルの子らは「主は私の力。また、ほめ歌。主は私の救いとなられた」と賛美しています。エジプトの時代、イスラエルにとって神様は先祖の神として知っていました。彼らにとって「父祖の神と私たち」という認識だったかもしれません。しかし出エジプトを通して「私の神、私の救い」として知りました。彼らの賛美を三つの節に分けて見ていきます。1~6節「いくさびとの主」。7~11節「怒る主」。12~18節「恐れられる主」です。
1,いくさびとの主
「いくさびとの主」を見ます。神様は悪をさばき滅ぼされます。神様は悪と戦い勝利する神様です。7節に「打ち破る、焼き尽くす」とあるように、神様は敵を焼き尽くすように戦われるお方です。主はエジプト軍を海に投げ込まれました。では神様の敵とは誰でしょうか。悪人、罪人でしょうか。二つの箇所を見ます、「最後の敵として滅ぼされるのは、死です」(Ⅰコリント15章26節)。「彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。・・・」(黙示録20章10節)。神様の敵とは死と悪魔です。罪は死のとげです。神様はいくさびととしてこの敵と戦い、完全な勝利を与えてくださったのです。
2.怒る主
次に「怒る主」を見ます。聖書では鼻息は「怒り」の表現です。敵のエジプト軍はイスラエルを追いかけました。彼らはイスラエルを滅ぼし、貪り、欲望を満たそうと剣を持って迫ってきました。神様は燃える怒りをもって鼻息荒く見ておられました。神様はその息で海の水を分け、イスラエルを通らせ、エジプト軍は海に投げ込まれました。怒る神は燃える怒りの息をもって敵を滅ぼし、ご自分の民を救われます。
3.恐れられる主
三つ目に「恐れられる主」を見ます。エジプトは最大の国家でした。諸々の民はエジプトに起きた出来事を聞き神を恐れ震えるのです。絶対的な力を持ち征服する神様への恐怖と戦慄が、対抗心を持つこともできないほどに諸々の民を平伏させたのです。しかしその神に導かれ、ともに歩いている他人々がいるのです。神の民。神に買い取られた人々です。それが私たち神の民です。私たちは神とともに約束の地、天の御国へ導かれていくのです。
4.賛美、不平、神の約束
ミリアムと女たちはタンバリンを持って踊りながら賛美しました。私たちは主にあって圧倒的な勝利者です。神様は侮られる方ではなく、敵を打ち滅ぼす万軍の主です。同時に私たちを贖い、いのちを与え、御国へと導く愛と憐みの神です。私たちはこの神様を見上げて賛美しましょう。キリストにあって、神様は私たちを罪の病から癒してくださいました。賛美をもって神様の栄光を現わしましょう。
2024.9.15
聖書箇所:出エジプト記14章1~31節
説教題 :なぜ恐れ叫ぶのか
説教者 :片岡智和師
1.イスラエルを追うファラオ
神様が先頭にたって導いてこられたのに、神様は「引き返す」ように命じられました。道を間違えたわけではありません。ではなぜここ にきて「引き返す」のでしょうか。4節「わたしはファラオの心を頑なにするので、 ファラオは彼らの後を追う。しかし、わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現わす。こうし てエジプトはわたしが主であることを知る」。エジプト人たちはイスラエルが迷っていると思い、彼らの後を追いました。神様はそのエジプトの軍勢によって栄光を現わそうとされていたのです。神様のなさることには目的があります。イスラエルの子らは「臆することなく出て行」きました。しかしその臆さない態度は弱く脆い
ものでした。
2.恐れ叫ぶイスラエル
海辺で宿営していたイスラエルにファラオの軍勢が追いつきました。イスラエルの前は海です。この窮地に「臆さない」態度はたちまち消え去り、主に向かって叫びモーセにを責め立てました。モーセがファラオの元へ行った後、悪い事になった時の反応と同じです。 良い時は喜んで従い、悪い事が起きると責め立てる。あの礼拝、あの祈りはなんだったのか。私達の信仰はイスラエル人達とどれほどの違 いがあるでしょうか。
「恐れてはならない、主の救いを見なさい。主が戦われる、ただ黙って見ていなさい。」「信仰には 行いが伴う、行いが伴わない信仰は死んでいる。」とはヤコブ書にあることばです。行動がなければ足りないということではありません。ヤコブが伝えたい事は神への従 順です。「主の救いを見なさい・・主があなたがたのために戦われる、ただ黙っていなさい。」窮地 にあって嘆いたり、もがくのではなく黙って主のわざを見る。主に身を委ねることが大事なのです。
モーセ自身も心のうちは穏やかで居られず主に助けを叫んだのかもしれません。神様は命じました。「なぜあなたは叫ぶのか。前進するように言え」。しかし前は海、後ろはエジプト軍です。 また言われました。「・・・あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれ ば、・・・海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。」神様は神の救いの道を切り開いて くださったのです。人には思いもよらない、神の救いの業が示されました。キリストの救いはこのようなものです。生きる道が前にも後ろにもない。戦う力 もなくただ死が迫る絶望。しかし、そこに神様は死と思われた目の前に、救いの道を切り開いてく ださったのです。
3.主とモーセを信じる民
「こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手 から救われた。イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジ プトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じ た」(30節)。民は、エジプト人の死、神様の大いなる御力を見て、主を恐れ信じました。分れた海の中 を歩いていく時、死を通り過ぎていのちが救われる体験をしました。自分達が通り過ぎた後、エジ プト軍が海に飲み込まれ死んでいるのを見た時、何を思ったでしょう。 水のバプテスマの思想はここから始まりました。
陸続きに進んでいたら、海を通る救いはありませんでした。神様に従っていても、真っ直ぐ進むのではなく遠回りし引き返すようなことがあります。神様に従っていても危機的状 況に陥ることがあります。しかしその時、神様にしかできない、神の 栄光の道が備えられているのです。「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶの か。イスラエルの子らに、前進するように言え。」言い換えると、わたしがともに居るのだからわた しを信頼し、前に進めと神様は言われるのです。
教会のかしらであるキリストに付き従うなら、私達の前には道が開かれます。主の導きは 絶えることがありません。道がないと思っても前に進む道は、神様が開いてくださるのです。故に、祈り神様に目 を注ぎましょう。神様に信頼する勇気をもって、前進しましょう。神様は栄光を現わしてくださいます。
2024.9.8
聖書箇所:出エジプト記13章1~22節
説教題 :忘れられないことば
説教者 :片岡智和師
1.初子の聖別種無しパンの祭り
初子を聖別する意味とは。 エジプト脱出の記念 です。「イスラエルの子らの間で最初に胎を開く長子はみな、人であれ家畜であれ、わたしのために 聖別せよ。それは、わたしのものである」 と主は言われました。そして初子の死があった過越しがありました。そしてまた、 『後になって、あなたの息子があなたに『これは、どういうことですか』と尋ねるときは、こう言いな さい。主が力強い御手によって、私たちを奴隷の家、エジプトから導き出された。ファラオが頑な になって、私たちを解放しなかったとき、主はエジプトの地の長子をみな、人の長子から家畜の初 子に至るまで殺された。それゆえ私は、最初に胎を開く雄をみな、いけにえとして主に献げ、私の 子どもたちの長子をみな贖うのだ。』と、聖別する意味を教えています。
聖別とは神のためにとりわけささげることです。 初子の死の事件。神のイスラエルに対する哀れみを覚え記念する行事が行われます。
初子の聖別と種無しパンの祭りの関連 はなんでしょうか。種無しパンの祭りは神の救いの記念です。キリストの死により罪が取り除かれた記念として、七日間種無しパンを食べるのです。七日目は主への祭り(礼拝)です。 「そういうわけですから、兄弟たち。私は神のあわれみのゆえに、あなた方にお願 いします。あなた方のからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。そ れこそ、あなた方の霊的な礼拝です。」(ローマ書12章1節)
2.額の上の記章 (8-9節、16節)
手の上のしるし、額のうえの記念、おしえが口にあるように。
ユダヤ人は律法の短い箇所を書き写し、腕や額に結び付けました。神様の要求は文字通りに行う ことではなく、そのように心に覚え続けることです。 記念祭がなくなれば、忘れられます。形を保つことは大事ですが、その意味を伝えることはさらに重要なことなのです。
3.適切に導く主
イスラエル人はまだ戦う状況にありませんでした。 近道をするなら、目的地に真っすぐ行く道があります。しかし神様は人の弱さを知っていて、考慮した最善の道に導いてくださるお方です。今後、神はイスラエルに戦いを命じるようになります。
火の柱(光、温もり、焼きつくす火)、雲の柱(神秘、きよさ) 「22 昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった」。 救われた者として、「神のことば、救い」を確かに心に覚え、導かれる主についていき、自分自身をささげていく歩みをしていきたいと思います。
2024.9.1
聖書箇所:出エジプト記12章29~51節
説教題 :人を導く主
説教者 :片岡智和師
今日は召天者記念礼拝です。先に召された家族や友人に思いを馳せるとともに、背後におられる神様に目を向けていきたいと思います。今日の箇所には初子の死が書かれています。しかしそれで終わらず、救い出してくださる神様に目を向けてまいりましょう。神様は約束に従ってイスラエルを救い出してくださいます。
1.初子の死
エジプトの初子が人から家畜にいたるまで主に打たれ、死にました。これは神様がエジプトで行った最後の災いでした。ファラオはイスラエルを去らせることを幾度も拒否してきました。神様を知らされてなお拒否してきたファラオは、自分の子どもが死に至るまで神様のことばを聞くことができませんでした。初子の死によてエジプトはイスラエルを追い出すことにしました。これ以上イスラエルを去らせなければ「われわれはみな死んでしまう」と恐れたからです。イスラエル人はこれまでの労働の対価として金や銀や衣服を求めます。「主はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプト人は彼らの要求を聞き入れ」ました。好意とは賛成の意味です。イスラエルがエジプトを出ていくことを歓迎し、賛成したということです。神様への恐れも含まれていたでしょう。
2.エジプト脱出
イスラエル人に入り混じって多くの異国人がエジプトを出ました。イスラエルと同じように強制労働にあった人々と思われます。イスラエル人たちは種無しのパン菓子を持ちました。パン種は人の内にある罪の象徴です。その罪のパン種を取り除くのです。なぜなら神に救われた神の民だからです。私たちも自分の罪を認めキリストを信じた時に、新しい生き方が始まるのです。
すべての人は神の前に罪を犯しています。刑務所に入れられた囚人のようなものでした。この刑務所にはこの日が来れば出られるという望みがありません。罪を犯してしまっているからです。多くの人は自分にも悪子心、悪い行いがあることを自覚しているものです。しかし無くせるものではなく、折り合いを付けながら生きているのではないでしょうか。エジプトは罪の世を象徴していました。神様はその声を聞き助け出されました。同じように自分の罪や悪に苦しめられる時、神様は助けを与えてくださいます。それがイエス・キリストの十字架です。そして罪に悩む人生ではなく、正しい道を歩む力を与えてくださるのです。
3.過ぎ越しの掟
43節からは過ぎ越しの掟が記されます。神様の救いを記念する祭りです。そこに参加できる人とできない人が区別されました。出エジプトの時、異国人も共に生きました。そのため神の民とそうでない人を区別する必要があったのです。神の民の証しとなる過ぎ越しの祭りは、その立場にない人を混ぜてはいけない厳格なものです。48節には割礼が出てきます。男性の包皮を切るこれは、神の民のしるしでした。現代は体ではなく心に割礼を受けます。心の割礼とはキリストを自分の救い主と信じることです。神様の要求は体に割礼を受けていれば良いのではなく、心がどうなっているかなのです。神を信じるか信じないか。神を愛するか愛さないか。このことが人を二つに区別するのです。両者は区別されていて、共にいても同じ道を歩むことはできません。神の国に至るイエス・キリストの福音の道をともに歩みたいと願います。
2024.8.25
聖書箇所:出エジプト記12章1~28節
説教題 :意味を伝える
説教者 :片岡智和師
信仰生活は時に束縛的な生き方に見えることがあります。そして立派な信仰生活を送れない自分はだめなクリスチャンだと責め、苦しい信仰生活を送る方もおられるでしょう。そういった苦悩も時に必要な経験かもしれませんが、その苦悩に留まってしまうとしたら、救いに立ち返り、恵みを見つめなおす時が必要です。キリストによる罪からの救いに目を向けてこそ、人は自由になることができます。今日は過ぎ越しと種無しパンの祭りの箇所です。いよいよエジプト脱出に差し掛かります。神様がイスラエルを救った日。ここから神の民の生活が始まるのです。
1.過ぎ越しの儀式の命令
1節~13節で過ぎ越しの儀式について詳細が書かれています。傷の無い羊を用意し、四日間見守り、屠り、その血を家の門柱と鴨居に塗ります。肉は火で焼き、種無しパンと苦菜を添えて食べます。パン種は罪と腐敗を、苦菜はエジプトでの苦難を示しています。服装も指定されています。すぐに旅に出て、神様に従っていくことができる準備をするのです。神様は初子の死のさばきをエジプトで行います。そのさばきの範囲にはイスラエルも含まれていました。そのため羊の生贄が必要だったのです。このことは、イスラエル人も罪ゆえにさばかれる存在であることを明らかにしています。しかし過ぎ越しの儀式することで、イスラエルをさばきから守り救われました。そして「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ」と言われています。過ぎ越しの儀式が行われたアビブの月は、イスラエル人の宗教暦で第一の月になりました。神の民としての新しい歩みが始まったことを、アビブの月を始めとすることで覚えるのです。その新しい人生、いのちは、神様の好意による契約と命令によって与えられました。私たちにとってそれはキリストの贖いによる救いです。
2.種無しパンの祭り
続けて種無しパンの祭りが制定されます。「七日間、種なしパンを食べなければならない。・・・種入りのパンを食べる者は、みなイスラエルから断ち切られるからである」。過ぎ越しの祭りの後、七日間の種無しパンの祭りが行われます。発酵した古いパン種は罪の影響、腐敗が全体に行き渡るものという意味があります。だからこそ古い性質を取り除かなければならないのです。パウロは第一コリント5章で「わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか」と言っています。罪赦された私たちはそれに相応しく「誠実と真実の種無しパン」で祭りをするのです。その祭りとは礼拝のことです。そして主日礼拝に限定したものではなく、イエス様が神とともに歩み、神の栄光を示されたように「誠実と真実な生き方」をすることです。毎日の生き方が礼拝なのです。
3.民に語られた命令
21節から、過ぎ越しの生贄の儀式が語られました。神様は儀式を制定されることで信仰を受け継いでいくように命じました。「あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のための掟として永遠に守りなさい」(24節)。神様のためではなく、「あなたとあなたの子孫のため」なのです。私たちが神を覚え、神を喜ぶために過ぎ越しの儀式と種無しパンの祭りが制定されたのです。子どもに「なぜ神様を礼拝しているのか、なぜみことばに従うのか」と問われた時、どう答えるでしょうか。「イエス様が私を罪と罪のさばきから救ってくださったから」と答えることができます。民はモーセから神様の命令を聞き、礼拝しました。主がともにいてくださる。自分たちを救い出してくださる。その喜びから出た礼拝だったのではないでしょうか。今一度救いの喜び、ともにいてくださる喜びを心に留めたいと思います。
2024.8.11
聖書箇所:出エジプト記10章1~29節
説教題 :住む所の光
説教者 :片岡智和師
今日の箇所ではいなごと暗闇災いが起こります。エジプトの生活で致命的な災害が行われるのです。いなごでは実生活の危機があり、暗闇は生活と共にエジプトの宗教・信仰において完全な敗北を思わせる災いでした。「光」とは色々な物をイメージさせる幅広い言葉です。電灯のように明るく照らす光、暗く沈んだ心を照らしてくれる光、暖かな光、きよく汚れを払う光。ヨハネの福音書1:4-5節にはこういうことが書いてあります。「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」
1.イナゴのしるし
モーセとアロンはファラオの所に行って、いなごの災害の宣告をしました。蝗害は現代でも悲惨な災害としてニュースになるほどで、すべてを食い尽くして通り過ぎた後には何も残りません。エジプトは農耕がメインだったので、いなごの害が起こるとすれば破滅的な害が与えられます。そのイナゴの害の宣言にファラオの家臣はファラオに非難を込めて進言しました。 家臣達は「彼らを去らせ彼らの神に仕えさせてください。エジプトが滅びるのがまだお分かりにならないのですか」とファラオの頑なさを非難します。始めはエジプトの労働力のイスラエルを手放すことは国益を損なう物でした。しかし今やイスラエルを去らせなければエジプトが滅びてしまう。それでもなお頑なになるとすれば、それは「国のため」ではなくファラオのプライドを守るため、「自分のため」です。
ファラオはモーセと交渉を始めました。ファラオにとってはそれが最大の譲歩だったかもしれません。でも、モーセの要求は一つであり交渉の余地はありません。ファラオは譲歩したのに拒否されたのでプライドが傷つけられたのでしょう。しかしそれはファラオの自分勝手な見方でしかありません。でも、自分の勝手な思いで人を悪者にする思いは私達にもあるのではないでしょうか。
いなごの災いは大変なものでした。「それらが全地の表面を覆ったので、地は暗くなり、いなごは地の草と、雹の害を免れた木の実をすべて食い尽くした。」地が暗くなるほどのイナゴ、それはエジプト人の心の内にも先の見えない暗闇をもたらしました。
2.暗闇のしるし
神様は暗闇の災いを行います。この暗闇はハムシンと呼ばれる砂嵐によるものだといわれています。砂が空に巻き上がり太陽の光が遮られるのです。三日間、互いを見れない、居場所もわからないほどの暗闇がありました。
この暗闇はエジプトの最高神である太陽の神・ラーを否定するしるしです。毎日現れ、すべてを照らし人々を照らす太陽の神。それがラーでした。神様はエジプトを暗闇で覆い、イスラエルの民が住む所を光で照らすことで、ラーを否定したのです。暗闇のしるしの中、イスラエル人の住む所に注がれた光は、神様の偉大な栄光、私達の心を照らすキリストの光を象徴しています。この光は、心を照らし人の目を見えるようにしてくださる光です。エジプトは暗闇でした。そこでは互いの顔が見えず交わりが持てません。自分の居場所もわかりません。「しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった。」(10章23節)神様の光がある所で、人は互いの顔を見て本当の交わりを持てるのです。先ずは神様の光に照らされ神様を見上げましょう。ファラオのような頑なな心、自分優先の心、人を見る心から離れて、神様に目を注ぎたいと思います。
神様の栄光の光、キリストの光は私達の心を照らし目を開いてくださいます。自分の心の目がどこに向いているか、判断基準がどこにあるか思い巡らしたいと思います。
2024.8.4
聖書箇所:出エジプト記9章1~35節
説教題 :このことのために
説教者 :片岡智和師
人は苦しいことがある時どううしてこんなことが起こるのか。あれが悪いかこれが悪かったかと思い巡らすことがあります。原因を探ることは大切です。エジプトに怒る災いはイスラエルへの虐待の裁き、罪の裁きです。人の苦しみは罪の裁きと結果なのでしょうか。イエス様は「罪のさばき」ではない意味を語りました。ある盲人がいました。弟子たちは彼が盲人に生まれついたのは彼が罪を犯したからか、その親が罪を犯したからか、と問いました。しかしイエス様は彼が盲人に生まれついたのは「この人に神のみわざがあらわれるためです」と答えられました。イエス様は原因ではなく目的を答えたのです。神様は何のためにこのことをされるのか、という、神様の目的に目を向けることをイエス様から学びます。神様は一人ひとりに計画をもって進めておられるからです。
今日の18節で神様は「しかし、このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため。そうして、わたしの名を全知に知らしめるためである」。
1.一つの災い
9章には家畜の疫病、腫物、雹の災いがあります。エジプトは農耕を主にする国でしたので、家畜が打たれることは致命的ではなかったようです。神様は家畜の疫病を「イスラエルの家畜は一頭も死なない、これを明日行う」と宣言し、全てを支配しておられる神様の主権性を明らかにします。ファラオは本当にそのとおりになったのか、ゴシェンの地に人を送って確認させました。するとイスラエルの家畜は一頭も死んでいないことがわかりました。それでもファラオは心を頑なにしました。嫌なものは見ないし見ても認めない。ファラオを見ると人の頑なさの根深さを思わされます。恐ろしいのは自分が見ていない、聞いていない、悟っていないことに自分では気づけないところでしょう。
8節から腫物の災いがあります。これにはかまどのススが使われました。イスラエルがレンガ作りをした奴隷労働の証しです。このススによってエジプト人と家畜に腫物ができました。呪法師たちはモーセとアロンの前に立つこともできません。次に神様は雹の災害を宣言しました。神様は今までにないことを語っています。「実に今でも、わたしが手を伸ばしあなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。しかし、このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため。そうして、わたしの名を全知に知らしめるためである」(15~16節)。神様はいつでもファラオもエジプト人も滅ぼすことができます。しかしそうしないのは神様に「神の力と名を全知に知らしめる」目的があるからです。
3.このことのために
今日語られている神様の希望は「このことのために、わたしはあなたを立てておいた」と語られる、神様の良い計画があることです。ファラオやエジプト人にとっては恐ろしい裁きの計画とも言えます。しかし神の民にとっては希望の計画です。奴隷のイスラエル人にとっては希望に目を向けることができないような現実がありました。でもその中で神様に目を向けていきたいと思います。私たちは神様が今も生きておられ、良い計画をもっておられ、神様の計画が成ることを信じているはずです。神様に望みを置きましょう。
2024.7.28
聖書箇所:出エジプト記8章20~32節
説教題 :贖いをする神
説教者 :片岡智和師
1.アブの災い
モーセがファラオに災いの宣告をする時に、神様は「わたしが主である、わたしの民を去らせよ」と伝えて、と伝えて、悔い改めの機会を与えています。しかしファラオはことごとく拒否しました。神様からの求めがある時、一歩を踏み出す勇気が必要です。認めたくない罪を認め、神様の前でひれ伏さなければならないでしょう。そしてそれは神様を信じる決心の時だけではありません。
その後の信仰生活でも同じです。主に従う勇気を必要とする時があります。自らの過ちを認めなければならない時があります。信仰生活においては避けられないものです。自分自身にそういった葛藤がずっとなかったとすれば、自分を疑う必要があるかもしれません。神様は私たちを父として育てるお方です。
その神様の語り掛けが、災いとその宣告という形でファラオとエジプトに与えられました。アブの災いです。アブは「いぬバエ」というハエの災いだと言われています。ハエもまたエジプトでは「命」の思想と関連がありました。腐ったものから誕生してくるように見えるハエに、死から命が生まれてくる希望を見ていたのです。神様はそのハエによって生活を脅かし、このようなものを崇めているのか、と偶像崇拝を否定しちるのです。
2.イスラエルを贖う神
アブの災いから見られる特徴はイスラエル人が区別されることです。神様はエジプト全土がアブによって荒れ果てたと書かれた中で、「わたしの民」であるイスラエル人をこの災いから区別されました。「区別して、贖いをする」と書かれています。贖いというと、多くの人が思い出すのがキリストの贖いでしょう。贖いとは「買い取る」という意味です。キリストは私たちの罪を代わりに負い、罪の代価を支払ってくださったということを、キリストの贖いと言います。贖いとはあるものを買い取って他と区別するということです。
エジプトに住んでいたイスラエル人たちは神様からの選びによって贖われました。エジプトに下される裁きから守られたのです。同じ場所にいながらも、主を前にして区別されるのです。イエス様の十字架の場面が思い出されます。イエス様が十字架に架けられた時、二人の犯罪人が磔にされました。一人はイエス様を罵倒し、もう一人はイエス様を神の子と認め、信仰告白しました。同じ境遇にあって同じものを見て、生きるか死ぬか全く異なる道を選ぶのです。その人は救いを宣言され、裁きから区別されました。私たちも裁かれるべき罪の世の中にあってこの人のように贖われたのです。アブの群れに参ったファラオは「お前たちを去らせる。私のために祈ってくれ」と言いました。しかしアブがいなくなると心を頑なにして約束を反故にしました。
神様は繰り返しファラオに語り、モーセは神様に従ってファラオに告げ、ファラオが祈ってくれと言えば災いを収める祈りもします。
3.神様の語り掛けとモーセの祈り
主の語り掛けとそれに従うモーセの祈りには、クリスチャンの役割が示されています。あの人は罪人だと言うのは役割ではありません。さばきと復讐は神様のものです。クリスチャンの役割は主のことばを語ること。人が主の道を歩むために祈り仕えることです。代表的な働きが「とりなしの祈り」です。モーセはファラオに神様の要求を伝え、災いの宣告と祈ることで神の力による解決を見せます。ファラオが悔い改める機会を与えるためのモーセの働きです。クリスチャンは罪に生き、罪の中にあって神様の恵みによって贖われ、救われた人です。神様の愛と憐みを受けた者です。そうであれば救われた私たちがすべきは悪を悪と裁くことではありません。神に立ち返るように取りなすことです。
モーセが神様に従ってファラオにことばを取り次ぎ、災いを止める祈りをするのもそうです。モーセはイスラエルのためにもとりなしの祈りをします。民が偶像を造った時、モーセはいのちをかけてとりなしの祈りをしています。私たちは恵みによって区別され、贖われ、キリストのものとなりました。その信仰に立つなら、クリスチャンは神様が自分をさばくのではなく救ってくださったように、自分も同じことをするはずです。罪ある人が立ち返るため、弱い人が建て上げられるために心を尽くしましょう。人のために祈り、良いと思うことをできるように、心に聖霊からの責めがあるなら謙遜に応えられるように祈りましょう。
2024.7.21
聖書箇所:出エジプト記8章1~19節
説教題 :これは神の指です
説教者 :片岡智和師
みことばは他人をさばくためではなく、まず自分が神様に取り扱われるために聞くものです。そうしてキリストの人格に変えられて、人を建て上げるためにみことばを用いることができます。自分の中にある頑ななファラオを見つけること、モーセが主に訴えた自分の弱さを見つけることです。
1.蛙の災いとブヨの災い
今日の箇所は蛙の災いとブヨの災いです。おそらく水の災いが収まったくらいのタイミングで神様はもう一度モーセをファラオのもとに向かわせ、イスラエルの民を去らせるように命じました。そして「そうでなければ全領土を蛙で打つ」と言われました。エジプトではヘクトと呼ばれる蛙の頭をした神が豊穣や多産の神として崇められていました。その神を象徴する蛙によって神様はエジプトを打ったのです。蛙が地を覆い、食器棚にまで入り込むような日が続いたわけです。
生活への不安、鳴き声によって睡眠も妨害されます。7節にはエジプトの呪法師たちも主の真似をして蛙を這い上がらせたとありますが、蛙を川に戻すことはできません。ファラオは呪法師たちを無視してモーセたちを呼び、「蛙を除けば民を去らせる」と譲歩しました。モーセは蛙を取り除くための時間をファラオに指定させました。イスラエルの神、主を認めさせるためです。モーセがファラオの指定どおり主に叫ぶと、神様はそれに答えて蛙を死なせました。
ところがファラオは一息つくとまた心を頑なにし、約束を反故にしてイスラエルを去らせませんでした。それもまた主の言われた通りです。神様はそれを見て今度はブヨを大発生させました。呪法師たちはもう同じことができませんでした。そして呪法師たちも「これは神の指です」と敗北宣言をしました。それでもファラオは頑なに聞き入れませんでした。主を認めたくない理由はありません。ただ認めたくないのです。罪を犯すとそrを恥じる思いがさらに罪の生活に引き込んでいくものです。どこかで負けを認めて断ち切らなければなりません。それを可能にするのが神様のあわれみです。
2.主のような方はほかにない
今日の箇所では、神様への畏れから出ることばが二つありました。一つは10節の「主のような方はほかにいない」というモーセのことば。もう一つは19節の「これは神の指です」という呪法師たちのことばです。主はすべてを支配する力ある神です。
神様は私たち一人ひとりに賜物をくださいます。私たちが自分のものとして受け取っている命、能力、財産など全てにおいていつでも与え、またいつでも取り去ることができるお方です。私たちは「主のような方はほかにはいない」と畏敬をもって告白したいと思います。
3.これは神の指です。
呪法師たちは自分の力が及ばないのを見て敗北宣言をしました。それでもファラオは臣下が負けを認めても心を頑なにします。イザヤ書には神様の偉大さが書かれた箇所があります。「・・・天はわたしの台座。地はわたしの足台。あなたがたわたしのために建てる家は、いったいどこにあるのか。・・・これらすべては、わたしの手が造った。それで、これらすべては存在するのだ」(イザヤ66章1、2節)。その神様が今ここにともにおられると私たちは信じています。人の心まで見通される方がともにおられるのは恐ろしいことです。裁かれて死ぬしかありません。神様はさばきをもっていのちを取り去ることができます。しかし神様は世を愛し、救いを与える神様でした。神様は愛のお方なのです。神様は愛するがゆえに御子イエス様を世に遣わし、救いを与えてくださいました。罪のない者として、安心して神とともに生きるいのちを与えてくださいました。
このキリストが教会のかしらです。神とともに歩む私たちは自分の語る言葉、行いをイエス様はどう思われるだろうか。イエス様ならどうするだろうかと問わなければなりません。イエス様は言われました。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」と。イエス様のくびきを負うことは心と魂に平安と活力を与えます。神様を畏れ、イエス様の姿を見て、主とともに歩む生活を送りましょう。
2024.7.14
聖書箇所:出エジプト記6章28節~7章25節
説教題 :主であることを知る
説教者 :片岡智和師
1.主のことば
エジプトに対する十の災いの目的は二つあります。一つはエジプトの偶像崇拝へのさばきです。いエジプトはさばきを通して神様を知らされることとなります。
アロンとモーセの出自の説明から戻り、再び主とモーセのやりとりが始まります。モーセは主に「私は口下手です。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか」と言いました。すでに一度ファラオは耳を貸しませんでした。今はファラオどころかイスラエルの民さえ耳を貸してくれません。これ以上悪いことになりたくないという、
モーセの思いがあるように感じます。目の前の問題、苦しみ、自分の弱さで頭がいっぱいです。モーセの言葉には三つの思い違いがあります。
一つ目は、モーセが語ることは、モーセの言葉ではなく「主のことば」です。語るのは主なのです。
二つ目は神様ははじめからファラオは耳を傾けないと仰っています。主が言われたとおり、ファラオは最後の災い、長子の死をもってイスラエル人を追い出します。しかしすぐ軍勢を率いて追いかけ、最後まで主のことばを聞きません。それでも出エジプトは実現しましt。主がイスラエルを救い出すと決めていたからです。イスラエル救出にはファラオが主のことばを聞く必要はありません。ファラオが何と言おうと神様にとっては取るにたりないものです。ではなぜファラオに告げよと言われるのでしょうか。それはエジプトへのさばきのためであり、エジプトに主を報せ、悔い改めの機会異を与えるためです。
三つ目の間違いは、ファラオに語るのはアロンだということです。だからモーセは自分が口下手だと気にする必要はないのです。そのために神様はアロンを与えてくださいました。
神様ははじめからファラオが聞かないこと、けれども救い出すこと、アロンがモーセの口になることを言っています。神様は再度以前語ったことをモーセに伝えました。モーセはここで以前語られた主のことばの意味を理解したのでしょう。以降モーセはいちいち動揺していません。主に従い、主のわざを見つめていくように変わっていきます。
2.ファラオとの対決
モーセとアロンはファラオのところへ行きます。「ファラオがあなたがたに『お前たちの不思議を行え』と言ったら、あなたはアロンに『その杖を取って、ファラオの前に投げよ』と言え。それは蛇になる」と書かれています。不思議を行うことは神の使者の証明でした。イエス様もご自分を示すために「しるし」を行いました。いつの時代も人は証拠を求めます。神様は証拠としてはじめに杖が蛇になるという、エジプト文化に則ったしるしを行いました。エジプトの術者も同じことをして対抗しますが、アロンの杖は彼らの蛇を呑み込みました。これはイスラエルの神がエジプトの神に勝っている証拠です。しかしファラオは認めませんでした。続けて水が血になるしるしが行われます。文字通りの血ではなく、赤く変色し、そのままでは飲めないような水になり、川の魚も死んでしましました。その範囲は水路、池、貯水池に及びます。自然現象による災いは実際にありましたが、神様が行われた災いは神様のタイミングで行われ、例年と比べ物にならない規模でした。エジプトの戍法師たちも水を血にしました。しかし対抗するなら同じことをするのではなく、水を元通りにすべきです。しかしそれはできません。世の支配者とも書かれるサタンは、神様の真似事はできても神様を上回る力、対抗する力を持たないのです。
できるのは神様の真似をして人を惑わすことです。それでもファラオの心を頑なにするには充分でした。神を認めたくない、信じたいものを信じる頑なな心には、些細な理由があれば良いのです。「ファラオは身を翻して・・・心を向けません」でした。神無しで生きていきたい人間の姿です。このファラオの姿から、神様の言葉を聞こうとしているか、神様に向かう姿勢を問われるのです。
3.主であることを知る
頑なに神様を否定するファラオですが、神様は仰います。「わたしがイスラエルの子らを導き出す時、エジプトはわたしが主であることを知る」。神様はさばきをもってエジプトにご自身を示そうとしておられます。でもいのちを取りません。それは悔い改めを求めるからです。神様はファラオに幾度もことばを伝え、ご自身を示されました。それが神様の義しさとあわれみです。人は神様が語りかけてくださっている間に応えなければならないのです。救われていない人は地上での命があるうちに。クリスチャンは主が求めておられる声に耳を傾けることです。その一人としてモーセ、またアロンがいます。アロンは金の子牛を造って失敗した印象が強いです。しかしアロンも信仰深く従順な人物かと思われます。今モーセの助けてとしてともにファラオの前に立ち、主のわざを行っています。神様のことばを受けるモーセと、モーセを通じて神のことばを聞いて従うアロン。アロンとモーセは互いに大きな支えになっていたはずです。
自分の計画や予想、期待を脇において主のことばを聞き、実行しましょう。
2024.7.7
聖書箇所:出エジプト記6章1~27節
説教題 :わたしは主である
説教者 :片岡智和師
1.わたしは主である
今日は神様がモーセに語られるところから始まります。
神様はアブラハムに与えた契約に従ってエジプトから救い出し、カナンの地を与えると語って確信を持たせようとしておられます。その祝福の中心は7節にあります。
「あなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる」。これが、神様が与えてくださる祝福の中心です。神様は、信じていない人にとっても神であることに変わりありません。しかし、神様を信じイエス様の救いを受け取る人とそうでない人では、私の神であるという意味は全く異なります。イエス様の十字架の贖いは神と人の和解のわざです。裁かれなければならない私たちのために、イエス様が代わりにさばきを負ってくださいました。これによって裁き、裁かれる関係から、王なる神と神の民、また父と子という祝福の関係を与えられたのです。それは「あなたがたを取って」と言うように一方的な恵みのわざです。イスラエルは出エジプトを通して神様の愛、正義、力、恵み、そして「ともにおられる神」を知ることになるのです。
私たちは神様をどのように信じているでしょうか。神様が何をしてくださり、自分に関わってくださったのか。神様を知った・見たという体験を言葉として覚え表現することで、私たちは神様の恵みを改めて覚えることができるものです。それは個々人では証しと言われているものです。
神様はモーセにイスラエル救出の約束を語りますが、計画の詳細を語りません。結果を保証し、だから語りなさいと言うだけです。神様の約束を神様のことばだから信じることを要求しているのです。「神様」が約束している、それが何より確かな保証だと訴えています。神様は2節、6節、8節、また29節で「わたしは主である」と繰り返されました。「わたしの名にかけてこのことを行う」という表現なのです。もっと具体的に言ってくれれば受け入れやすいのに、と思わなくもありません。しかしこれから起こる十の災いを語られたとしても、それならばと信じるでしょうか。仮に詳細を語られて信じたとしても、それは神様を信じたのではなく自分の知恵と判断を信じたのです。
モーセは神様のことばをそのまま民に語りました。でもイスラエル人は失意と激しい労働のために聞くことができませんでした。ファラオの策略どおりです。モーセもまた信じられませんでした。モーセは12節で「イスラエルの子らは私の言うことを聞きませんでした。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか」と言っています。モーセもまた失意のうちに神様を信じられないでいたのです。モーセも弱い一人の人間でした。
しかしモーセは結局は従っていくのです。泥の中をもがくようにして従っていく、モーセの精一杯の信仰です。イエス様は弟子たちに「からし種ほどの信仰があれば、山を動かすこともできます」と言われました。モーセは小さな種粒ほどの信仰をもって主に従っていきました。それは山を動かすような、神様のしるしにつながっていきます。モーセの信仰は神様のことばによって与えられた恵みの賜物です。
「わたしは主である」と祝福を宣言してくださる神様が、今私たちの神となり、私たちを神の民としてくださいました。「わたしは主である」と言われる神様は私たちに、ただ神を神として信じることを求めておられます。「わたしは主である」と私たちに語られる神様を信じましょう。
2024.6.16
聖書箇所:出エジプト記5章1~23節
説教題 :始まりの困難
説教者 :片岡師
1.世のファラオ
モーセとアロンは主のことばを伝えにファラオの元へ行きます。「イスラエルの神、主はこう仰せられます。『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』」。ファラオは答えた。「『主とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。私は主を知らない。イスラエルは去らせない。』」。ファラオの答えは、まさしく世の人間の答えそのものです。
主とか神とか、なぜ私がそれを信じなければならないのか。ファラオはエジプトでは神ですから、イスラエルの神のことばを聞くなどプライドが許さないのです。世の人にとっても自分が自分の神、主権者です。自分のやりたいようにやる権利を持っていると考えるのが世の人です。その代表がファラオです。神様はなぜ十のわざわいと細かく段階を踏むのでしょうか。神様はすぐにイスラエルをエジプトから導き出すこともできるのです。そうしないのは、ファラオに本当の神様を知る機会を与えているからです。7章5節で「わたしがエジプトの上に手を伸ばし、イスラエルの子らを彼らの中から導き出すとき、エジプトはわたしが主であることを知る」と仰っています。神様には神様の計画があるのです。ファラオはモーセとアロンの進言に怒り、イスラエル人の苦役を増す命令を出しました。歴史的に支配者層は労働者に余裕を与えないこと歯向かう力を持たせないようにしてきました。現代人は忙しいと言われます。忙しいのは良いことです。しかし、人は神のことばを聞けなくなるほどの忙しさを持つべきではないのです。それは神のことばを聞かせまいとするサタンの罠です。ファラオは神のことばを聞かせまいとしてイスラエル人の労働をさらに過酷にしました。
2.打たれる民
イスラエル人たちはレンガを作る仕事をさせられていました。今までは材料の藁は与えられていましたが、ファラオの命令で藁も自分で調達しなければならなくなったのです。イスラエルの労働のかしら達はファラオの元に直訴しに行きました。ファラオに謁見し、意見するのはそれ自体命がけの行為です。しかも「いけないのはあなた様の民の方です」と批判するのです。この行動は、彼らの労働がすでに命を脅かされるほど過酷なものになっていたことを伺わせます。しかしファラオの取り付く島もない態度にイスラエル人は困り果てます。
イスラエルの民はどうしようもない怒りをモーセとアロンにぶつけました。民は二人に言いました。「主があなたがたを見て、さばかれますように」。民からすると、「神が救ってくださる」と喜んだら、苦しみが増したのです。あなたのせいで大変なことになった。死んでしまうような苦境に立たされていることを思えば、不信仰だと簡単に批判できません。とは言え民は神様に訴えるべきでした。民の心は苦しさと理不尽への怒りで一杯で、神に目を向けることができませんでした。人にとって一番の問題は死ぬことです。全ての人は「死」の問題を抱えています。罪の支配に生きるなら人は死にます。しかしイエス様を救い主と信じる時、罪の支配から助け出され、死の問題は解決します。永遠のいのちが与えられるからです。それを聖書では「自分に死ぬ」と表現します。罪に生きる自分は死に、キリストにあって新しいいのちに生きるようになるのです。自分のいのちを神様に委ねる信仰です。イエス様は十字架によっていのちを捨てる愛を示してくださいました。神様はイスラエルの民にも私たちにも信仰を求められています。
3.主に訴えるモーセ
良いと思ってしたことが裏目に出て恨まれるのは、申し訳なさと無力感と自責の念で心がすり潰されるようです。モーセは主のもとに戻りました。祈る時間を持ったのです。
モーセは神様に目を向けて祈り訴えます。他人や自分を責めてどうこうよりも、まず神様に訴えるのが知恵です。それはモーセの良いところでもありました。モーセからしたら神様しか訴える相手がいないとも言えます。それもまた神様の守りです。「主よ、なぜ私を遣わされたのですか。神が助けると約束してくださったからイスラエルに戻って来たのです。それなのに神様は一向に助けてくれないではないですか」。神様のことばは、すでにモーセにも民にも語られています。その神様のことばを、今置かれた状況の中でどのように聞き信じるかです。私たちの目には嬉しくない、まだ解決・進展しないと思う問題があるかもしれません。それでも神様はご自身の最善をもって計画を進めておられます。神様を信じて救われてほしいと願う人がいるけれどそうならない。けれども神様は、ご自分の子イスラエルを虐待するファラオにさえ幾度も機会を与えました。神様はイスラエルを顧みたようにちゃんと見ておられて、神様の時に取り扱ってくださいます。
モーセは主のもとに戻って訴え、主のことばを求めました。モーセはここから本当に主の働き人になったように見えます。モーセは自分の思いを主に訴え、主よなぜと問いながら神様の真意を訪ね求める姿勢を持ちました。イエス様は耳のあるものは聞きなさいと言われました。それは神様の真意がわかるように問い続けよという意味です。神様は答えてくださいます。みことばを受け取り、主に信頼する恵みの日々を生きましょう。
2024.6.9
聖書箇所:出エジプト記5章1~23節
説教題 :わたしは主である
説教者 :片岡智和師
1.神の計画
モーセは神の杖を手に取ってエジプトに行く準備を始めます。この杖はそれをもってしるしを行えと命じられた羊飼いの杖です。神様は助けを必要とするお方ではありません。しかし人を用いられます。それは、私達が神様の計画に参加し喜び楽しむためです。
神様は言われました。「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。」神様は、人が自分の子を大切にするようにイスラエルは神様にとって愛し大切に存在だと宣言しておられるのです。私達はキリストを信じ、神様が愛すると言われる「神の子」になりました。自分も神様に特別愛された一人です。さて、モーセがエジプトに行く途中のことです。「主はモーセに会い、彼を殺そうとされた。」神様はアブラハム契約に従ってイスラエルをカナンの地へ導こうとしておられます。割礼はこの契約に含まれた神の民のしるしでした。しかし、その導き手となるモーセが息子に割礼を施しておらず、契約に違反していました。モーセは息子の割礼をもって働きの準備が終えられたのです。クリスチャンは心に割礼を受けています。割礼は親が子に施す神の民のしるしです。神様は私達の心に割礼を施してくださったのです。一方的な神の愛による救いです。
2.神の計画に歩む
割礼をもって準備を終えたモーセとアロンはイスラエルの民は神様を信じ礼拝しました。
「主が語られたことばのすべてと、彼に命じられたしるしの全て」を語り行ったとあります。困難の中、拠り所となるのは「主のことば」です。イエス様はこう仰ったのです「世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」。心に割礼を受けて、神の子とされた私達にも最終的な約束が与えられています。やがて御国へ入れられる約束です。良い事も苦しい事もあります。しかし神様が何より素晴らしい計画を進めておられる希望を持って、そこに参加し、主の御業に感動し賛美する信仰生活を送りたいと願います。大きな決断や働きだけでなく日々の日常、日々の信仰生活の中で神様は働いています。主の計画に参加する方法は単純です。神様に目を向け、主のみことばに従って生活することです。神様に目を向け、神とともに歩む信仰生活を楽しむことができるよう、お祈りします。
2024.6.2
聖書箇所:出エジプト記4章1~17節
説教題 :創造の神
説教者 :片岡師
1.モーセの懸念
今日の箇所で、モーセは二つの懸念を訴えます。
モーセは、仮に自分が民のところへ行って主が言われた通りに伝えても話を聞いてもらえない、と懸念を現わしました。これは命令の拒否ではなく、神様のことばの否定です。3章18節を見ると、「彼らはあなたの声に聴き従う」と言っているのです。モーセは不安から「彼らは私の声に耳を傾けない」と言って神様のことばを否定しているのです。民は私の言うことを信じない、耳を傾けないというモーセに、神様は神様の全能の力を示す三つのしるしを与えます。
2.創造主のわざ
一つ目は杖が蛇になる。二つ目はツァラアト。三つ目はナイル川が血になる。この三つです。
一つ目のモーセの杖のしるしです。モーセは羊を誘導するのに杖を持っており、そのための杖を手に持っていました。神様が言われたとおりそれを地に投げると蛇になりました。この蛇はおそらくアスプコブラです。エジプトでは申告の対象であり、王の権威と神性の象徴でした。モーセは蛇を見て驚いて身を引きました。神様は「手を伸ばしてその尾をつかめ」と命じました。死ぬ危険がある命令ですが、モーセはその通りに尾をつかむと、元通りの杖に戻ったのです。これらを投じの文化から理解すると、イスラエルの神はファラオの権威・力よりも偉大であり、そのわざを、神様がモーセを用いて行うことをあらわしています。
二つ目はツァラアトです。ツァラアトは白いカビが生えたように見える皮膚病でした。この病気は福音書にも登場し、汚れたものとして嫌われていました。古代エジプトにおいても忌み嫌われる病気でした。そしてエジプト人はイスラエル人をツァラアトと呼んで蔑んでいたのです。モーセの手がツァラアトに冒されたのはイスラエルの現状であり、それが一度懐に入れられ癒されるのは、神の元で癒され、健全な神の民のすることを意味しています。
三つ目はナイル川が血になるというしるしです。このしるしはこの時ではなく、7章から始まる十の災いの最初に行われています。ナイル川はエジプトにとって繁栄といのちの神でした。その水が血になることは、エジプトの偶像を打ち滅ぼすことを意味しています。
一つ目のしるしはパロの王権の否定、二つ目のしるしは病からの回復、三つ目のしるしは偶像崇拝の破壊をそれぞれ意味しているのです。
3.勇気をもって手を伸ばす
神様はこの三つのしるしをもってモーセを立たせようとしました。でもモーセはそれでも私はできませんと拒否します。
モーセはどうにかして人を逃れようと理由を考えています。神様は言います。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか」。私たちの口も耳も目も神様がつけて、それを開くのも閉じるのも神様の主権のうちなのです。神様との関わりにも、人相手でも、神様に自分の口や耳や目を開いてもらう必要が私たちにはあります。
モーセはそれでも「どうか他の人を遣わしてください」拒否しました。神様に問題を全部潰されて理由も言えないモーセはただ「私には無理です」と言うしかなくなりました。神様はモーセに怒って言われました。「あなたの兄レビ人アロンがいるではないか。・・・彼はあなたに会いに出て来ている。・・・」。神様はすでにアロンに働いてモーセのところに行くようにしていたのです。神様はアロンというモーセに必要な助け手を準備していました。モーセがしなければならないことは、神様に信頼し、勇気をもって蛇に手を伸ばし尾をつかむことです。私たちも同じです。
私たちには神様に与えられた杖、賜物があります。それをもって神様に従っていくのです。それぞれ神様にしなさいと言われていることは何か。自分の賜物は何か祈り、ことばを待ち望みましょう。
2024.5.26
聖書箇所:出エジプト記3章1~22節
説教題 :わたしがともにいる
説教者 :片岡師
1.神様の呼びかけ
今日はモーセに神様が語りかけ、イスラエルの導き手として召しを与えるところから始まります。モーセは羊飼いをしていてホレブ山まで連れてきていました。すると柴が燃えているのに燃え尽きない不思議な光景を目の当たりにします。モーセが近寄るとその中から「モーセ、モーセ」と呼びかける声が聞こえました。モーセは燃え尽きない柴の光景と自分の名前を呼ぶ声に、神様の呼びかけだと直感したのでしょう。モーセは「はい、ここにおります」と答えています。神様はモーセに履き物を脱げと言われました。モーセは言われた通りにしました。この二つは主人に呼ばれた僕(しもべ)の姿を現しています。主は私の主人、私は主のしもべです。主が私を呼ばれたら「はい、ここにおります」と従う。それがしもべの姿です。イエス様を主と呼ぶ私たちは、イエス様の言葉に対し「はい、ここにおります」と聞き従うのが当然の態度です。愛する主人の呼びかけは本来喜ばしいことです。モーセは神様から任命されました。自分が心から尊敬する人が、あなたに頼みたいことがあると声を掛けられる時、自分を信頼してくれていると嬉しい気持ちが湧いてくるものです。できるならば力にならせてほしいと言いたくなります。しかし時に、私にはできません、自分はそのような器ではありません、と言いたくなる時もあります。モーセは神様に「私は何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは」(11節)と言い、「はい、わかりました」とは言いませんでした。エジプトにいた若い頃のモーセなら喜び勇んで返事をしたかもしれません。しかし今のモーセは違いました。かつて殺人を犯し、それを隠した自分の罪と弱さ。同胞からの拒絶。エジプトを追われ、イスラエル人として苦役をともにすることもないまま遠くに逃げ、平穏な生活を送ってきました。そんな自分がイスラエルを救う導き手になるなど、そんな力も無ければ資格もいない。モーセは挫折を経験し、すっかり自信を失っていました。
2.わたしがともにいる
「私は何者なのでしょうか」というモーセに、神様は12節で「わたしがあなたをともにいる。・・・このわたしがあなたを遣わすのだ。・・・」と言われました。「あなたとともにいる」「わたしがあなたを遣わす」。これが神様のモーセに対する答えでした。イスラエルの導き手という重い任を負い、相応しく働くためモーセに必要なことは、彼自身の力でも経験でもなく、「主がともにおられる」ことであり、「わたしがあなたを遣わす」という確かな保証と信頼でした。あなたには力がある、とどれだけ言われても、勇気は持てなかったでしょう。
「私は何者ですか、他の人を遣わしてください」と言ったモーセは恐れと不安を抱えていたでしょう。人間的な思いで言えばやりたくないというのが正直なところだったかもしれません。しかしできることなら避けたいと思いながらも神様の命令に従っていったのではないかと思います。モーセは困難と悩みがあっても、神様に思いを訴えながら従う道を選んでいきます。モーセのすばらしさは、困難がある時に神様にそれを訴えるところです。それは神様が約束を与え、モーセを遣わされたことを示してくださったからでしょう。「わたしがあなたとともにいる」とは聖書全体を通して語られる神様の祝福の言葉です。アブラハムの時からも語られ、イエス様も「見よ。わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる」(マタイ28章20節)と約束されました。神が私とともにおれらる。この祝福は現代の私たちにも与えられている最も重要な祝福です。でもモーセは神様のこの約束だけで満足しませんでした。モーセは神様に「その名」を尋ねました。ただ呼び名を聞いたのではなく、あなたはどのような存在、どのような神なのかを問いかけているのです。モーセは改めて、自分たちが信じる神がどのような神なのか、そして何をなそうとしておられる神なのか、ともにいてくださるという神様を知るために、神様の名を聞いたのです。神様は答えて、「わたしはあるというものである」と言われました。
3.わたしはある
「わたしはある」の意味から、神様の二つの性質を見ることができます。一つは神様は過去・現在・未来において永遠に存在する神であるということ。二つ目は神はあなたがたの間に存在しておられる神であるということです。
神は唯一はじめからおられ、ただ一人造られた存在ではなく、すべてをお造りになった永遠で全能の神であることを表しています。その神様が、今ここにおられ、一人ひとりとともにおられ、その生活の中に働いておられるという宣言です。神は真の神として存在し、私たちを愛しともにいてくださる存在です。その宣言と祝福が「わたしはある」という神様の名に込められています。神様は出エジプトと荒野の旅において、民の真ん中にともにいてくださる神として、「わたしはある」と言われる神を明らかにしてくださっています。
神の言葉に従うために大事なことは、神様がどのような方であるかを知っていることです。神がどのような方かを知る時、自分は何も持っていないと思っていても従っていく力を得ることができます。イエス様は約束を与えてくださいました。「見よ、わたしは世の終わりまであなたがたとともにいます」。
2024.5.12
聖書箇所:出エジプト記2章1~25節
説教題 :薄氷の上を歩く
説教者 :片岡師
1.それぞれの働き
モーセはアムラムとヨケベデの間に生まれた末っ子でした。長女ミリアム、長男アロンがいます。母のヨケベデは生まれたモーセがかわいいのを見て殺さずに隠しました。しかし隠せなくなり一縷の望みにかけてパピルスの籠に入れ、ナイル川の茂みに置きました。その場所にファラオの娘が水浴びに来ます。これは宗教的な行為で、ナイル川はエジプトではいのちを与える神でした。その水をもって体を清め長寿が与えられると信じられていました。おそらくモーセの母はこの時間この場所にファラオの娘が来ると知っていたのでしょう。ファラオの娘は「かわいそうに思って」救い上げ、ミリアムの進言を聞き入れて、乳母として実の母のもとでモーセを育てさせることにします。母のかわいく思い生かそうとする心、ファラオの娘のかわいそうに思う心、ミリアムの勇気ある行動を、神様はご自分の計画として用いていました。彼女たちは知らないうちに神様の計画に用いられていたのです。
モーセは安全に育ち、五才くらいで王女に迎えられてエジプトの王族としての教育を施されます。これは神の律法を受け取り伝える際や、モーセ五書を記すのに役立ちました。四十歳になったモーセは同胞のへブル人を見に行き、その苦役を見ました。彼は王族として過ごしても自分はへブル人だと自覚しています。そして同胞がエジプト人に打たれているのを見て衝動的に殺し、砂に埋めてしまいました。モーセは愛国心と正義感に熱い人間でありましたが、同時に罪を隠そうとする、私たちと変わらない罪人だったのです。モーセの素質は善いもので大きく用いられますが、それを正しく発揮する神様の訓練が必要でした。モーセはこの翌日にへブル人同士の争いを仲裁しようとしましたが、その時に同胞から拒絶と罪の指摘をされ、ファラオにも殺人を知られて地を終れる結果となります。そしてミディアンの祭司と知り合い、娘のツィポラと結婚して住むようになりました。モーセはこうして離れた地で寄留者として過ごすようになりました。一度全てを失い、祭司とともに過ごし、羊を飼うことが神様の訓練でした。
2.神の働き
こうして23節の時点で四十年が経過しました。この間もイスラエル人は重い労働に苦しんでいました。
神はイスラエルの声を聞き、思い起こし、ご覧になり、みこころに留められたことが書かれています。神様はずっとイスラエルを覚えていて約束を果たすために働いておられます。ここからその計画が開始されていくという宣言がされているのです。今日の2章は神様の出エジプトのわざに至るまでの下準備です。まだ誰もみわざが始められていることを理解していません。しかし神様は人々の間で人を用いて計画を進めておられたのです。今も神様は終わりの時にむけてご計画を進めておられます。その最終的な計画のために、一人ひとりにご計画を持っています。神様は自分にどんな計画を持っているのかに目を向けていきましょう。一方で、それを曲げようとするものがあります。それはモーセに見られました。モーセがへブル人を助けた勝手なふるまいです。動機は間違っていません。しかし方法とタイミングは神様の計画とは違ったのです。モーセがエジプト人を殺したような方法ではイスラエルを救うことは不可能です。またイスラエルを救うのはモーセという救済者ではなく、真の神によらなければなりませんでした。そのためには神様の計画に思いを馳せる信仰と知恵が必要です。それを教えてくれるのが聖霊であり聖書のみ言葉です。
み言葉に聞き従おうと心から願い生きる時、私たちが自覚していなくても神様は御心を行わせてくださいます。
3.御心に生きる
モーセは八十歳になりました。イスラエルはこのまま奴隷の日々が続くのか。モーセは同胞へブル人を助ける思いを実現できないままになってしまうのか。そう思わせるような年月が経ちました。でも神様はここに至って出エジプト計画の前準備を終え、いよいよイスラエル救済計画を開始すると宣言をして2章が終わるわけです。神様のなさることは人知を超えています。これは神様のわざでしかないと私たちが神の栄光を見る形で、神様は約束を守ってくださるのです。神様は必ず約束を果たすために今も生きて働き、その計画のために人を用いておられます。自分のことも神様は用いてくださると信じましょう。神様は一人ひとりにその生涯の終わりまで計画を持っておられます。その神の計画を信仰をもって受け止め、従いましょう。神様は想像を超えて豊かな祝福を与えてくださいます。
2024.5.5
聖書箇所:出エジプト記1章1~22節
説教題 :怖れを抱く
説教者 :片岡師
1.土台となる出エジプト記
今週からは出エジプト記を見ていきます。出エジプト記は旧約聖書の土台となる書です。出エジプト記はイスラエル人にとって自分のルーツを確認できる書物です。神様の契約がどのように履行されていったのか。どのようにしてイスラエルが神の民とされたのか。神の民として主とともに生きるとはどういうことか。それが記されているのが出エジプト記です。創世記は聖書の序章の立ち位置にあり、その本題が出エジプト記です。聖書全体のテーマはなんでしょうか。それは救い主イエス・キリストです。人類全体を救って神の民とし、神の国を建設する。そのひな形となるのが出エジプト記にあるのです。
ではイスラエルが選ばれた出エジプト記は私たちにどう関係するのでしょうか。ヨハネの福音書1章7節には「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」と書いてあります。律法とは出エジプト記から始まったものです。その成就がイエス様です。荒野での水やマナの再現がイエス様が行った五千人の給食です。贖いの子羊の完全な形がイエス様の十字架です。すべてのクリスチャンはイエス・キリストの救いという出エジプトを体験し、聖霊によって心に律法が刻まれ、御国という安息の地を約束された荒野の旅をしているのです。神の民として生きることを知るために、出エジプト記は大切です。
2.二種類の恐れ
ヨセフの時、イスラエル家族が七十人でエジプトに移住しました。イスラエル人のエジプト滞在は430年で、一生の時点では350年滞在していたことになります。この間イスラエル人はエジプトで増え広がりました。創世記にある「生めよ、増えよ、地に満ちよ」の祝福がイスラエル人に注がれていたのです。
エジプト人は自分たちの中でどんどん大きくなるイスラエル人を恐ろしいと思いました。自分たちの脅威となり得る存在として恐怖心を抱くようになったのです。そのため奴隷として支配し、屈服させて、自立した民族としてのイスラエルを消してしまおうとしたわけです。
エジプト人はイスラエルに銃口を突き付けられる思いだったのでしょう。しかしイスラエル人は苦しめれば苦しめるほど増え広がり強くなっていきました。そこでファラオは、イスラエル人の男児を殺せと命じたのです。恐怖の対象を消そうとしたのです。しかし神を恐れる二人の助産婦たちがいました。彼女たちはファラオの命令に背いて男の子を生かす選択をしました。彼女たちは神を恐れたとあります。助産婦たちにとって、ファラオに罰せられる恐怖よりも、真の神への恐れが勝っていたのです。
エジプト人がイスラエル人に抱いた恐怖と、助産婦たちが神に抱いた恐れは言葉が使い分けられています。エジプト人の恐怖は抑圧・圧力の恐れであるのに対し、助産婦たちの恐れは畏敬や崇拝の恐れです。彼女たちはファラオに呼び出されて詰問されます。それでも彼女たちは真の神を恐れて良いことをしました。それは命がけで神に従い、世を捨てる選択をしたのです。助産婦たちの世を捨てる決断とは、王に逆らい、エジプトの神よりもイスラエルの神を信じることです。非難や処罰を受けるかもしれません。それでも真の神を恐れてイスラエル人の男児を救うこと、それが世のものを捨てて神に従う決意です。
3.神を恐れて
本当に神を恐れ神の前に良いことをしようとするなら、世を捨てる覚悟が必要な時があります。葬儀の時には線香を上げず、故人を拝みません。私は人口300人の田舎町で育ちましたが、町の神社の維持費の集金が来た時、親はそれを断るのに勇気がいったようです。平穏に過ごすためには町に同化しなければいけません。それを断るのは、自分はあなたとは違いますと主張するのと同じです。クリスチャンが世に同化したら神を見出すことは困難になるでしょう。非難され、迫害されるかもしれません。しかしその中で助産婦のように救われる人が現れるのです。神様は助産婦たちを祝福し、栄えさせました。そのことは今でも覚えられ、クリスチャンを勇気づけるものとなりました。神様は見ておられて祝福してくださるのです。自分が神様を選ぶ時、人々は神様を見、いのちを得る機会を得ます。世に気遣い迎合し、真の神をないがしろにしてしまう時、私たちは世の知人・友人・家族を神様から遠ざけ、捨てることになるのです。世を捨てるとは、その捨てたものを神様に委ねることです。神を恐れ、信頼し、従っていきましょう。
2024.4.28
聖書箇所:ヨハネの手紙第三13~15節
説教題 :平安があるように
説教者 :片岡師
1.平安があるように
今日は平安をテーマに思い巡らします。平安とはどのようなことを思い浮かべるでしょうか。
ヨハネはガイオに、あとは手紙ではなく直接話しましょうと閉じます。伝えたいことを伝えるには会話が必要だと思う時があります。聖書では時々、顔を合わせて語ることを重要視する箇所があります。モーセは神様と語り合いましたが、顔を合わせて語り合うことを求めました。言葉を交わしても相手の顔が見えない時、一つ壁があることを感じさせます。顔と顔を合わせて話すことは、自分と相手との真実な交わりです。信頼と、互いに相手を愛する人格と意志によって行われる交わりが、顔と顔を合わせる交わりです。
人は罪を犯した時、顔を避けました。アダムとエバは御顔を避けて陰に隠れました。神様と顔を合わせられなくなったからです。罪によって神と人の間に完全な交わりが無くなったのです、人と人の間も同じで、真実な交わりは壊されました。そして互いの間にも緊張感と不信が生まれました。ガイオもまた、ディオテレペスのこと、クリスチャンへの迫害のこと、異端と偽預言者のことなど不安の種が多くありました。その中でヨハネが直接会いに行きますという顔と顔を合わせる交わりの約束や、友人たちからのメッセージは励ましになったことでしょう。ヨハネの「平安があなたにありますように」との挨拶は一般的な挨拶の言葉です。でもこの挨拶には大事な意味があります。平安と訳されるエイレーネーは平和という言葉です。ユダヤ人の間ではシャロームという、相手を祝福する挨拶です。平安(平和)があるように。この言葉は真実に顔と顔を合わせる交わりの源です。
2.挨拶
日本でもおはよう、さようなら、など、挨拶の言葉があります。さようならは日本独特の言い回しで「それならば」の変化した言葉です。ここまでの無事を確認し、それならばこの先もきっと大丈夫という意味が「さようなら」です。では「平安があるように」にはどういう意味が込められているでしょうか。
ルカ10章5節でイエス様は「どの家に入っても、まず『この家に平安があるように』と言いなさい。」と命じています。ここは宣教の箇所です。平安があるようにとは、宣教においては、神様との平安を持っている人がまだ持っていない人へ祈る祝福の挨拶です。
平安とは神様と人の関係を指しています。イエス様は平安を語った箇所をヨハネの福音書から見てみます。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。・・・あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません」(14章27節)。「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(16章33節)。平安はイエス様が残し与えるものです、イエス様の十字架は私たち人間が平安を得るためのものだと言うのです。イエス様の言葉を見ると、心を騒がせる、怯む、苦難がある、勇気を出すなど、平安や安心とは逆の環境、背景が念頭に置かれています。勇気を出さなければならない状況は普通、不安や恐怖の状況です。まして弟子たちは会堂から追放されるともこの時言われています。普通に考えて平安ではない。でもその状況にあってクリスチャンは主の平安を得ています。そのためにイエス様は十字架にかかった、すでに勝利したのだというのです。
20章19節から26節では復活したイエス様が弟子たちに「平安があるように」と三回言っています。三回同じことを言うのは強調で、大切なメッセージだということです。イエス様が死んで失意と失望にある弟子たち、同胞のユダヤ人たちを恐れる弟子たちにイエス様は「平安があるように」と繰り返すのです。イエス様は弟子たちに伝えたいことがありました。イエス様が与えてくださった平安です。それは罪の赦しと神様との和解です。赦しと和解が成立した今、それぞれがキリストを通して神様と直接語り合える存在になった。それがイエス様の「平安があるように」という挨拶です。イエス様が与えてくださった平安は神様との平和であり、人と人との平和をも与えるものです、イエス様の十字架、贖いが、神の御顔を避けて隠れた人を、再び神様の前に顔と顔を合わせる直接の交わりを可能にしてくださるのです。
3.平安に生きる
平安があるように、は神様との良い関係があなたにあるように、と言い換えてもよいかもしれません。ガイオの状況は不安の多い状況です。イエス様が死なれた後の弟子たちも恐れと失望にありました。私たちにも不安が多くあるものです。それぞれどんな日常・状況にあるでしょうか。クリスチャンの平安は、何も問題がないという平安ではありません。問題や困難があっても平安なのです。イエス様はいのちを狙われながら御心を行う生活をしていました。宮きよめなどは憎まれる、命を狙われるとわかっていて行ったことです。それを可能にするのはイエス様が持っておられた平安です。私たちはその平安を与えられているのです。主の平安がありますように。
2024.4.21
聖書箇所:ヨハネの手紙第三9~12節
説教題 :見習うべきこと
説教者 :片岡師
1.見習いたいこと
誰でも、悪を行うよりは善を行いたい、悪を見習うのではなく善を見習おうとするものです。ヨハネは11節で当たり前のことを言っています。「愛する者よ。悪を見習わないで善を見習いなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことがない者です」。どうしてヨハネはこんな当たり前のことを書き送るのでしょうか。ガイオのいる教会にはヨハネ達を受け入れないディオテレペスという人がいました。信者として教会のリーダー的な位置にいる人物です。しかし「意地悪なことば」つまり不当な内容でヨハネたちを罵り、ヨハネ達が派遣している巡回伝道師を受け入れず、受け入れようとする人を教会から追い出していました。ヨハネやガイオの目線で言えば、ディオテレペスは不当な批判をし、主のための働きを妨害し、主の働きに加わろうとする人を教会から追い出しているのです。ここを読んで「ディオテレペスを見習おう」と思う人はいないでしょう。これらの行動は、サタンが不当に神を否定するようにヨハネ達を罵り、神様の働きを邪魔するように人々の邪魔をし、信徒を教会から追い出しているのです。でもディオテレペスは自分が間違ったこと、悪を行っているとは思っていなかったでしょう。むしろ自分が正しいことをしていると信じていたでしょう。悪を見習わず善を行いなさい、それはガイオへの励ましであり、善を行っていると思っているディオテレペスへの諭しの言葉です。ディオテレペスの行動を見ると、彼はヨハネに対して怒っているようです。なぜ彼は反発し、怒っていたのでしょうか。
2.かしらになりたい
ディオテレペスがなぜそのような行動をとっていたのか、理由を想像してみましょう。一つは教会の自立です。そのために当時権威と強い影響力のあったヨハネが教会に干渉してくることに、危機感や煩わしさを感じていたのかもしれません。自分たちでやっていく、手を出すなと反発したのかもしれません。また教会の経済的理由があったかもしれません。受け入れていく余裕はない。自分たちのために財産を使わなければならない時だと考えたのかもしれません。はっきりと理由はわかりませんが、正統性のある理由が掲げられていたはずです。でもヨハネはディオテレペスの本心を見抜いていました。彼は「教会のかしらになりたがって」いました。どれだけ正当な理由を語ったとしても、ディオテレペスは自分がこの教会のかしらになりたいと思っていたのです。「かしらになりたい」とは「リーダーになることに特別な感情を抱いている人」のことです。「自分はリーダーでなければならない」という強い思がヨハネ達やディオテレペス自身の良い働きを妨害していたのです。良いリーダーになれる資質を彼は持っていました。でもその資質、賜物を発揮する方向性が違ったのです。ディオテレペスは自分は信仰者として、また教会のリーダーとして正しく必要なことをしていると思っていたはずです。その時の常識、その時の社会生活の中で正しいことを教えようとしていたのです。古代ローマの時代は男性は勇敢であることや、強いこと、頼もしいことが美徳でした。
ディオテレペスはそのローマの教育で育ち教会でも自分は頼られる人間じゃないといけない、強くないといけないという思いから、ヨハネたちを退けて教会を自立させようとしたのです。でもそれは、教会のため、善を行うのだと思いながら、本当は自分の理想を実現したい。教会を自分のいやすい場所にしたい、そのような働きになっていたのです。ディオテレペスは強い人だったのでそのような行動をとりましたが、逆に弱い人の場合にも、あの人に傷つけられた、教会は助けてくれないなど、あの人が悪い、教会が変わらないといけないと主張する時に、自分の思うように相手を支配しようとするディオテレペスと同じ思いになっています。
3.恵みによって
正しい事、善を行おうとしても間違ってしまう自分たちがいて、そういう弱さや心の傷を負った自分たちがいるのです。それがディオテレペスです。だとしたら私たちはどうやって神の前に善を行っていけるのでしょうか。それは信仰と聖霊の助けの他にありません。ローマ書7章には「私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。・・・私はしたいと思う善を行わないで、したくない悪を行っています。・・・それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です」と書いています。パウロも悩んだのです。そしてこう続きます。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」。パウロは自分の罪やみじめさを見て、イエス様の救いを再確認しました。善に生きるには「心の貧しい人」になることです。誇れるものは持っていないと認めることです。そして神様に助けを求め縋りつくことです。今もし自分のことを考えると心苦しいという方がいたら、それはパウロの通った惨めさです。神様はその思いを通して善を行うこと、イエス様の救いの恵みを教えてくださっています。主の恵みにより頼んで、みことばによって神様の前に善を行いましょう。
2024.4.14
聖書箇所:ヨハネの手紙第三5~8節
説教題 :神にふさわしく
説教者 :片岡師
1.送り出す働き
今日はガイオの働きから、同労者としての相応しい働きを見ていきます。
日本は宣教師によって福音が伝えられ、教会が建てられていきました。糸井教会も宣教師によって建てられた教会です。何人もの宣教師が糸井教会のために労してくださいました。その背後には宣教師を送り出す人々、信仰を持ち現地で支える人々がいました。彼らによって宣教師は働きを続け、多くの人々に福音が届けられていきました。私たちは巡り巡ってその恩恵に与り、信仰に導かれました。「愛する者よ。あなたは、兄弟たちのための、それもよそから来た人たちのための働きを忠実に行っています」。
ガイオは当時の巡回伝道師たちをとても良い形で受け入れ、また送り出していました。ガイオはその伝道師たちが巡回してきた際によく受け入れ送り出したのですが、ヨハネはそれを「よそから来た人たちのための働き」と言っています。ガイオのいる教会にとって、その伝道師たちは自分たちの派遣でもなければ、派遣した教会との特別な協力関係などがあるわけでもない「よそから来た人」でした。もしかしたらそのことで自分たちの教会のために労すべきだと、ガイオへの非難があったのかも知れません。ヨハネはガイオの働きを忠実で立派だと称賛しました。ヨハネの称賛から、「教会は一つである」という、教会についての真理を知ります。全て教会は主にあって一つです。ですから、よそからとか、よそからじゃない、とかは無く、全ての教会は真理に立ち主の働きを成していくものなのです。ガイオの働きとヨハネの称賛からは、個別でありながらも一体として存在していく教会の在り方が示されています。
2.同労者となる
派遣されていた伝道師たちは、御名のために信仰者の支援しか受け取りませんでした。福音を売り物にする、商売道具にする、またはそう思われることを避けるためです。伝道師たちは援助が無ければ困る貧しい人々でした。しかし主の御名のために異教文化や御名が軽んじられる形の援助は受けませんでした。彼らが巡回伝道をするためには助けが必要でした。助けは天からマナが降って来るのでも、岩から水が出てくるのでもありません。彼らを受け入れ送り出すガイオのような信仰者の支えと助けが、現代の天からのマナや岩からの水なのです。御霊が与えられたクリスチャンは神の恵みによって、良いものを発することができる存在に造り変えられました。それは岩から水が出るような奇跡です。天からのマナ、岩からの水となるべく、恵みと祝福が与えられているのです。伝道師だけでなく、主に仕えるクリスチャンは全てそのような存在なのです。そして主のための働きには、教会ひいてはクリスチャンによる祈りと支えが不可欠です。祈りほど目立たず、でも欠かすことのできない支えはありません。多くの人には知られない働きで自分が目立ったり評価されるものでもないかも知れません。人間的には見栄えのしない仕事です。だからこそ、祈りと祈る人が大切にされる教会であるとしたら、それはとても素晴らしいことです。
ぜひ祈ってください。そして実働的な奉仕をしている時には、自分は祈られていることを覚えてください。私たちは互いを愛し支え、重荷をともにする同労者です。
2024.4.7
聖書箇所:ヨハネの手紙第三1~4節
説教題 :子どもが生きる喜び
説教者 :片岡師
1.愛するガイオへ
ヨハネの手紙第三はガイオへ宛てられた個人的な手紙になっていますが、その内容を見れば教会のことを慮って書かれている手紙です。ガイオは誰かというと明確にはわかりません。しかしヨハネが宛てて書いたガイオは教会の有力な信徒であり、監督や長老の立場にあったことが考えられ、ヨハネと親しく弟子と呼べる関係性でした。ヨハネは一つの心配がありました。それは9節にあるディオテレペスです。この人は教会の頭になりたがっている人で、ヨハネ達のことを拒否する人でした。ヨハネ達を受け入れるガイオや他の教会員と、それを快く思わないもう一人の有力者ディオテレペスがいて摩擦があり、その現状に対してヨハネは手紙を送ったのです。ヨハネはこの短い手紙の中で「あなたを愛していますよ」と四回表明しています。指導者の態度において「相手を愛する」ことがいかに重要なことかわかります。読者の心にはヨハネの愛が深く感じられます。ヨハネが厳しいことを語っても、それはヨハネの希望や満足を通したいのではなく、神の愛に根差した神の愛によって愛するが故の言葉だとわかるのです。もしこのように書き送る相手がいるならば、またこのように言ってくれる人がいるならば本当に幸いなことです。そこには神の愛の交わりがあるからです。神の愛が無い時、言葉は人を自分に従わせ、支配しようとする言葉になります。それはパウロの言うところのうるさい銅鑼やシンバルです。
2.ヨハネの喜び
ヨハネはガイオが真理に歩んでいるのを見て大いに喜びました。それはヨハネにとって何にも代えがたい喜びでした。自分の子が神の真理に歩むこと以上の喜びは無いと言っています。親しく思っている人が信仰の歩みをしているのを聞いたら嬉しいことだと思います。それはその人を愛するからです。
私たちは神の子どもです。ヨハネがガイオを自分の子として彼の歩みを喜んでいるように、神様は私たち一人ひとりの歩みをご覧になってとても喜んでくださるのです。私たちの日々が神を喜ばせることに繋がっていくとしたらすごいことです。この世の全てを造り治める神が自分一人のことを見て喜んでくださるのです。神様はそれほど深く一人ひとりを愛しています。神様から見れば欠けの多い者ですけれども、神様は愛をもって受け入れて喜んでくださっているのです。それが神様のアガペーの愛です。与える愛、存在を喜ぶ愛です。ヨハネは神の愛で教会を愛しました。
互いに仕えて、喜び、愛し合っていきたいと思わされるものです。神無き愛は人を支配しようとします私たちは神の愛で人に仕えましょう。それは人を生かす働きであり、神様が喜んでくださる働きになり、自分自身も深い喜びを味わうものとなります。信仰をともにして歩む兄弟姉妹を喜びましょう。そしてまた、自分にとっての信仰の子どもと呼べる人が与えられることを祈り求めていきましょう。
2024.3.31
聖書箇所:マタイの福音書28章1~20節
説教題 :イエスに会って礼拝した
説教者 :片岡師
私たちは今日、イエス様の復活を記念してイースター礼拝をささげています。弟子たちやマグダラのマリアともう一人のマリアもまた、復活したイエス様に出会い礼拝しました。復活したイエス・キリストが私たちの信仰の原点と言えるほどキリスト教の核心です。
完成した聖書を持ち、学ぶことができる現代クリスチャンは、イエス様の死について当時の人々のように実感することが難しい。その理由の一つは十字架の死を見てすぐに復活を読むからという理由があるのではないか。イエス様が死んだ、私の罪を負って死なれたという大きな犠牲を実感し受け止める前に、イエス様の復活を見てしまう。そんな側面があるのではないでしょうか。一週間、イエス様の確実で実際的な死を覚える時を過ごしてきました。私たちはその上で復活のキリストを崇めたいと思います。
1.墓に来た女性たち
十字架の時系列を確認します。木曜の夜に最後の晩餐。金曜の九時に十字架に磔。午後三時にイエス様の死。その後埋葬され、土曜日(安息日)があり、日曜日の朝復活しました。二人のマリアが週の初めの日の朝真っ先にイエス様の墓に行きました。彼女たちはとにかくできることがしたい、墓を塞ぐ石をどうしようかと相談しながら、居ても立っても居られなかったのです。マグダラのマリアともう一人のマリアは、イエス様が墓に葬られている様子を見ていました。心から慕っていたイエス様が死に、葬られている。二人のマリアの心境に思いをはせる必要があります。世の理不尽、喪失感・無力感。イエス様が墓に入れられた時、彼女たちは希望が閉ざされた、光が失われたように感じたでしょう。十一人の弟子たちはイエス様が死んでしまった安息日をどんな思いで過ごしたでしょうか。自分たちはどう生きていけば良いのか。そんな思いで過ごす安息日だったのではないでしょうか。
2.墓を塞ぐ石
墓は大きな石で塞がれていました。この生と死を分ける大きな石は人の手によらず御使いによって動かされました。御使いがその石に座っているのは死を征服し、勝利したことを表しています。
実際もう墓の中にイエス様はいません。御使いによって行われた神様のわざは、墓に来た女性のため、人のためになされたのです。イエス様が復活したことを明らかにするために、神様は石をどかして墓を見せたのです。女性たちはイエス様復活を聞き、弟子たちのところへ行く途中、イエス様が彼女たちの前に現れました。二人のマリアはこの時初めて、イエス様を本当に救い主として礼拝することができました。
3.キリストを礼拝する
弟子たちはイエス様が指示したガリラヤの山に登りました。16節から17節には「そしてイエスに会って礼拝した」と記されています。ここにはドラマがあります。弟子たちもまたこの時、本当に救い主イエス・キリストを知って礼拝したのです。マタイの福音書ではもう一箇所弟子たちがイエスを礼拝したと記されているところがあります。水上歩行の奇跡として知られる箇所です。この時弟子たちはイエス様の超常の力を見て「まことにあなたは神の子です」と礼拝しました。それはガリラヤ湖でした。さらに振り返ると、イエス様が最初に弟子を任命した場所はガリラヤ湖でした。ガリラヤ湖から始まり、ガリラヤ湖で神の子と礼拝し、今弟子たちは再びイエス様に呼ばれ、ガリラヤの山に訪れています。そこは弟子たちにとって特別なイエス様との出会いの場所でした。弟子たちは自らの罪と弱さ、世の理不尽に打たれ過ごした安息日の次の日、人の罪を負い、死んで復活された真の救い主イエス・キリストに出会い礼拝したのです。弟子たちは復活の主から主の弟子として世に再派遣されました。私たちもまた主に呼び出され、復活の主に出会った一人ひとりです。イエス様は「見よ、わたしは世の終わりまであなたがたとともにいます」と言われました。よみがえられた主を賛美しましょう。
2024.3.24
聖書箇所:マタイの福音書27章1~14節
説教題 :売り渡される人
説教者 :片岡師
1.取り巻く人々
今日はユダの裏切りによって捕らわれたイエス様が裁判にかけられている箇所です。イエス様の裁判は二度行われました。一つはユダヤ人たちによる宗教裁判。もう一つはローマ法による政治裁判です。ユダヤ人たちによる宗教裁判では、イエス様は神を冒涜する罪を犯したとされ、死刑に値すると宣告されています。その裏ではペテロが「あなたはイエスの弟子かどうか」と問われ、神に誓って「私はイエスと関係ない」と否定しました。その時、鶏が鳴いたのを聞いたペテロはイエス様が言われたとおりになったことを理解して号泣しました。さて、当時イスラエルには死刑の権利がありませんでした。イエス様を死刑にするにはローマ法で死刑になる必要がありました。そこで祭司長と長老たちはイエス様をローマ総督ピラトのところに連れていき告訴したのです。罪状は「自らを王として反乱を企てた」政治犯です。元々はユダがその証言をする予定でした。しかしユダは自殺してしまったため、偽証や扇動と暴動の脅しによってイエス様の死刑を求めました。ピラトはこの訴訟が正当でないことを知りながらも、保身によってイエス様を死刑に明け渡します。そこで運よく助かったのがバラバ・イエスです。
2.ユダとペテロと祭司たち
まずユダのことが3節から5節に書いてあります。ユダはイエス様を裏切って売り渡した張本人です。しかしイエス様が死刑に決定したのを聞いて首を吊るほどの後悔と自責の念に駆られました。ユダがどんな思いでイエス様を売ったのかはわかりません。わかるのはイエス様の死を望んでいなかったことです。しかしユダは自分勝手な欲、独善によってイエス様を裏切りました。ユダはイエス様についていく選択をしませんでした。どれほど後悔を覚えたとしても、ユダはイエス様よりも自分を上にしているのです。
ペテロはイエス様と関係ないと言った時、弟子としてイエス様を裏切りました。しかしユダは自殺し、ペテロは生きました。二人の違いは罪の重さではなく、イエス様に寄り縋ったかどうかです。イエス様はペテロに「あなたのために祈りました」と言われました。ペテロはこの言葉に支えられたことでしょう。ユダはイエス様に裏切りを指摘され、やめるチャンスが与えられていましたが、そうせずに決行し、自分の罪によって死ぬことになりました。ユダは最後までイエス様に寄り縋ることができませんでした。自分で自分の道を進む自己中心が、自らの死を選ばせたのです。
祭司たちは罪に苛まれるユダを「自分で始末しろ」と突き放しました。ユダが犯した罪を自分で始末する、それは死の他にありません。祭司たちはユダが投げ込んだ銀貨を「血の代価」で汚れているため神殿に入れられないと言って陶器師の畑を買いました。彼らの振る舞いは自己義認、欺瞞に満ちていました。彼らは自らの汚れにまるで盲目になっています。裁判で偽証し、暴動をちらつかせてピラトを遅しました。しかし自分たちの行いを問題視しないのです。自分たちは正しいと自認しているからです。自己義認とは、神ではなく自己判断です。神よりも自分なのです。
3.ピラトとバラバ
ピラトはイエス様が不当に訴えられていることを悟っていました。しかし釈明しないイエス様に非常に驚いたとあります。イエス様が弁解しない先にはむち打ちと十字架があります。ローマのむち打ちは凄惨でした。尖った石や棘の付いた鉄球などを鞭に埋め込み、表面を傷つけるだけでなく抉っていくのです。イエス様はそういう刑を前にして沈黙しているのです。それは神の預言が成就するため。世の人を救うためです。ピラトにはイエス様を助ける権威がありました。しかし彼はイエス様を見捨てました。今でも「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と世界中で唱えられています。
バラバ・イエスという人がいます。彼は捕まって死刑を待つ身です。バラバは父の息子というあだ名です。罪を犯し、死を待つだけの「父の息子イエス」は、罪を犯していない、父なる神の子イエス・キリストの身代わりによって解放されたのです。ここにキリストによる私たちの救いが象徴されています。私たちは神に対する反逆罪を負っていました。それがキリストの身代わりによって救われ、解放されたのです。そしてキリストに従っていく信仰も与えられました。私たちはキリストの身代わりによって助けられたバラバです。自分に罪があることを認め、神に罪を告白し、キリストの赦しを受け取りました。そして今や神の子とされました。
キリストは十字架を黙って受け入れ、祈られました。「父よ彼らをお赦しください。彼らはなにをしているのかわからないのです」。主を賛美しましょう。
2024.3.17
聖書箇所:ヨハネの手紙第二8~13節
説教題 :先を行くか留まるか
説教者 :片岡師
1.気を付ける
ヨハネは反キリストへの警告と取るべき態度を示します。キリストを告白しない反キリストが大勢世に現れていたからです。反キリストとは真実のキリストを否定して別のキリストを信じ教える人々です。私たちは真理を固く守っていかなくてはなりません。それはいのちを守ることです。「気をつけて、私たちが労して得たものを失わないように、むしろ豊かな報いを受けられるようにしなさい」。気を付けなさいとは「自分自身をよく見つめなさい」の意味です。今自分がどの状態・立ち位置にあるのか、よく気を付けて自分たちのいのちを守りなさいとヨハネは言っているのです。人は他人がどうなのかということに目を向けて、自分がどうなのかはよく見えないものです。自分の目の梁よりも他人の目の塵が気になるものです。だから今自分がどの状態にあるのか、気を付けて見なければなりません。
当時大勢の偽教師、惑わす者が現れていました。そして私たちは「先に進んでいる」。教会の人たちは古いものに「留まっている」と揶揄したのです。ヨハネは10節、11節で警告します。「あなたがたのところに来る人で、この教えを携えていない者は、家に受け入れてはいけません。あいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります」。家とは教会のことです。挨拶をしてもいけないとは冷たすぎるのではないかと思う気持ちもあるでしょう。しかし当時の挨拶は相手を祝福する言葉でした。あなたの働きがうまくいきますようにと祝福する言葉になってしまうのです。家に迎え入れ、挨拶することが偽教師の働きを許し、認めることになってしまう。それは「悪い行いをともにする」ことです。だから、相手が語り信じていることは何なのか。自分は何を信じ、何に根差しているのか。よく気を付けて真理に留まり続けていなければいけないのです。
2.先を行くか留まるか
エイブラハム・リンカーンはこう言ったそうです。「敵を倒す最善の方法は敵を友にすることである」。キリストの福音、十字架はまさにそのような働きでした。神に敵対している人間をご自分の友とするべき、世に来られ罪を背負い死んでくださいまsた。そして復活することで、神とともに過ごす永遠のいのちを人に与えてくださったのです。
イエス様は生涯において罪を犯しませんでした。それは真理に歩み続けたことを意味します。人間としての完全な人生を全うしてくださったのです。イエス様が一切罪を犯さず神のことばに歩み続けたから世に真理が示され、世に神の愛が示されたのです。私たちはそのイエス・キリストの真実の歩みの恵みに与っていのちを得ました。その与えられたいのちを守ることが、私たちが真理に歩み続けることでもあるのです。だから私たちは「先を行く」こともなく、「後に戻る」こともなく留まり続けるのです。それがキリストのようになる聖化の歩みです。現代の私たちはおよそ二千年前の教会、信徒たちが守り通した真の福音によって救われたのです。その背後には、ご自分の真理を示し続けてくださる神の愛とあわれみがあります。
2024.3.10
聖書箇所:ヨハネの手紙第二4~7節
説教題 :愛のうちを歩む
説教者 :片岡師
1.神の命令
クリスチャンは神様の御心に従って生きるようになることを目標にしています。信仰生活は、自分が良いと思うことをするのではありません。しかし一方で、信仰の歩みや愛することが「命令」に従う行為と言われると、違和感を覚える方もおられるかもしれません。命令されてすることが愛や信仰なのだろうか。義務ではなく自発的・積極的に喜んで従い愛するのではないだろうか、と。
確かにクリスチャンは喜んで神に仕えるように成長していく者、義務を越えて神と人に仕える者です。でもヨハネは「命令に従うことが愛であり、愛とは神の命令に従うこと」だと書いています。クリスチャンにとって、愛することは義務なのです。その愛は意志を持って行う行為です。神様はその意志、御心の中で人を愛するがゆえに救う選択をしてくださったのです。愛することは意志によって選択する行為です。私たちがその選択をする際には神様の助け、判断基準となるものが必要です。それが神の命令です。キリストのように神と人を愛すること、それが愛することであり、真理のうちを生きることです。ヨハネは書き送った教会のうちに真理に生きる人が「あなたの子どもたちの中にいる」のを見出し、心からの喜びを抱きました。しかしその裏には、真理に歩んでいない子どもたちが教会に多くいた現実を背景にしています。その中でヨハネは教会に一つのお願いをしたのです。
2.愛し合いましょう
ヨハネは使徒として召され長老という立場にあって権威がありましたが、謙遜に「私たちは愛し合いましょう」とお願いして励ましています。イエス様は「あなたがたはわたしが愛したように人を愛しなさい」と言わず、「わたしが愛したように互いに愛し合いなさい」と命令しました。
「互いに愛する」には同じように愛してくれる相手が必要です。神の愛で愛そうとしてくれる人が必要です。イエス様の命令は弟子たちに語られました。「あなたがたは互いに愛し合いなさい」。全体で全体を愛することが互いに愛し合うことです。愛を示し、返してくれたら愛し合うことができたのではなく、イエス様が言われたのは神を中心とした集まりとして、互いに愛し合うことです。教会は全体で互いを愛する場所なのです。それは神の国の光景であり、神の国の模型となる場所が教会です。教会に集う時、そこで私たちは神の国を体験し、あらわしているのです。さらにこう言われています。「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」。私たちが互いに愛し合うなら、その姿がキリストを人々に指し示し、神様を知らせることになるのです。なぜ教会に来る人が少ないのか。教会で人が救われることが少ないのか。教会に行けなくなる人がいるのか。全てが教会の責任ではないとしても、悔い改めなければならないことがあるように思うのです。
3.真理と愛のうちを歩む
今日読んだ四節から七節では命令と同じくらい歩むと書かれています。歩むとは人生を生きて進むことです。私たちは互いに愛し合いましょう、ともにこの道を真っすぐ歩んでいきましょうと励ましています。それは世に反キリストが大勢現れたからです。反キリストは偽りを主張します。その中で教会は「わたしが愛したように互いに愛し合いなさい」というキリストの戒め、キリストの真理と愛に立ち続けるのです。このキリストの道を歩むためにみことばや祈り、聖霊の助けが必要です。
「互いに愛し合っている光景」とはどのようなものでしょう。互いに愛し合う、人を愛するとはその存在を受け入れることです。そして受け入れるには自分が変わること、自分が相手に仕えることです。使徒の働きには弟子たちが聖霊によってあらゆる国の言葉で話し始めたことが書かれています。彼らが理解できる言葉で伝えるようにされました。それは相手に仕えること、相手を愛することでした。教会は文化・人種・世代も違う困難の中で、みことばを通して互いを愛する交わりが形成されていきました。
教会は互いに愛し合うことで神の国が現わされる場所です。今私たちは神様に選びだされその恵みに与っているのです。その恵みに生き続けるために、愛のうちを歩み続けるために、「私たちは互いに愛し合いましょう」と励ましを受け取りたいと思います。
2024.3.3
聖書箇所:ヨハネの手紙第二1~3節
説教題 :愛する人へ
説教者 :片岡師
1.長老と夫人と子ども
第二の手紙は真理と愛を主題にして書かれています。
一節の長老とはヨハネを、選ばれた夫人とは教会を、子どもたちとは教会員のことを言っています。
「選ばれた」という言い方は、救いとは選ばれて与えられた恵みであることを教えています。教会もまた神に選ばれた者の集いなのです。教会に宛てた手紙だと理解すると、13節の「あなたの姉」とは別の教会のことを指しています。ヨハネは今別の教会に居て、おそらく以前滞在していたのであろう教会に向けて手紙を書いています。第一の手紙と同様に、第二の手紙でも「互いに愛し合いましょう」と書かれています。その愛には真理が必要不可欠です。
2.愛すること
ヨハネは愛の使徒と言われていました。ある人は厳しくも必要を理解して指導してくれる人を愛があるというでしょう。ある人は優しく受容してくれる人を愛があるというでしょう。愛の使徒と呼ばれていたヨハネは愛を実践していたはずです。だはヨハネが語り実践した愛とは何だったのでしょう。真理と愛を語るヨハネはどこから真理と愛を学んだのでしょうか。当然イエス様であり、神の御霊から教えられました。
ヨハネの福音書を見てみるとヨハネは自分のことを「イエスが愛した弟子」と書いています。自分はイエスに愛されたという実感がこのように書かせています。若い時のヨハネは愛の使徒という異名に似つかわしくない逸話が残されています。かつてのヨハネは「雷の子」とイエス様から言われました。過激に怒りをあらわにする人物だったのです。またマタイの福音書10章には、他の弟子を出し抜いてイエス様の隣の偉い席につかせてくれとお願いしに行ったことも書いてあります。ライバルを押しのけて偉くなりたい性格があったのかと思われます。しかしそのヨハネが愛を知り学んだのです。ヨハネの手紙第一3章16節にはこう書いています。「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛がわかったのです」。ヨハネの愛体験はイエス様が自分のためにいのちを捨てたことにありました。自分のために死んでくださったイエス・キリストという真理の愛の実感をもって、「私はあなたがたを本当に愛しています」と語りかけるヨハネの愛の深さは素晴らしいものです。同じ告白を、私たちは主にあってすることができます。そして同じ真理にある人を愛するのです。
3.真理と愛
「父なる神と、その御父の子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安が、真理と愛のうちに、私たちとともにありますように」(ヨハネの手紙第二3節)
恵みとあわれみと平安があるように、は手紙でよく用いられる挨拶分ですが、ヨハネは加えて「真理と愛のうちに」と書きました。真理とはキリストであり、キリストのうちに愛があります。キリストを通して人に恵みとあわれみと平安が与えられました。真理と愛は中心であり切り離せないものです。この真理がキリストの姿を歪めることで曲げられようとしていました。いつの時代も真理なき愛に、また愛なき真理によって福音が歪められる危険があります。愛の欠けた真理によって時に教会は人を見下し、さばき、律法主義になり、キリストを見失って苦しみの場所となります。真理の欠けた愛によって教会は罪が受容され神のことばから逸脱し、キリストから離れ世の楽しみの場所となります。教会は真理と愛のうちにある場所であるべきす。そのためには何が必要でしょうか。それは、自分が神に特別愛された存在なのだという自覚ではないでしょうか。罪から抜け出せない自分のためにイエス様が代わりに死んでくださった。そしてよみがえり、こんな自分とともにいてくださるという自覚です。神に愛されたことを知るならば、人は神を愛します。そして神を愛することは神のことばに従うことです。キリストという真理に立ち、キリストの愛に生き、神様に特別愛された者としてかみを賛美し、栄光を現わしてまいりましょう。
2024.2.25
聖書箇所:ヨハネの手紙第一5章18~21節
説教題 :偶像から身を守る
説教者 :片岡師
1.私たちは知っています
A.神から生まれたものは罪を犯さず、神から生まれた方に守られている
文字通り罪の言動をすることがもうないとの意味ではなく、罪に生きることがないという意味です。罪に反対し離れる心を持っている。それが化mから生まれた者です。その人は、罪に生きることがありません。そして悪い者が触れることもできないのです。悪い者とは世を支配する者、サタンです。世全体はサタンの支配下にあります。その中にあって、神から生まれたクリスチャンは守られるのです。なぜならば、神から生まれた方、神のひとり子イエス様が私たちを守ってくださっているからです。信仰が薄いかも知れません。サタンに捕らわれそうになるかもしれません。しかし、イエス様は私たちを守り、手を引いて導いてくださるのです。クリスチャンはどう応えますか。「私は主とともに歩みます」と決意することです。
B.私たちは神に属し、世は悪い者の支配下(属す)にある
「私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています」
世の中の人間は二種類しかいません。真理に生きる者と偽りに生きる者。神の支配下にあるか、悪い者の支配下にあるかです。クリスチャンは世にあって異国人です。かつては同国の人でした。でも神の国の民となり籍を移しました。それゆえに二重の困難があります。かつての生き方から離れる困難と、異国の地で生きる困難です。だからこそ、私の属す場所は真実な方だという確信が必要です。私たちはこのことを「すでに知っています」。神様がみことばを与えてくださったからです。私たちは神様を信じています。ゆえに神の約束に確信を置くことができます。これが曖昧になるとき、自分は本当に神に属す者なのか、と自信がなくなったり、世が魅力的に映る時があります。救いは神から与えられた神の約束によるのだと覚える必要があります。そうでない確信が、すぐに恐怖に揺らぐものになります。
C.神の御子が来て、真実な方(神)を知る理解力が与えられた
「私たちは知っています」と記された二つを見てきました。
最後にヨハネが「知っています」と書いた内容は「真実な方を知る理解力が与えられたこと」でした。それはクリスチャンの立場を宣言しています。「私たちは知った・見出した」のではなく、「私たちは知らされた」ということです。主がともにいてくださること、神に属す者とされたことを私たちが知っているのは、御子キリストによって真実な方を知る理解力が与えられたからなのです。自分の知識によるのではありません。ヨハネの記す最後の宣言によって、クリスチャンは自らを誇ることなく、どこまでもより頼み感謝していくようになります。
2.偶像から身を守る
この手紙は唐突なように記される警告により閉じられます。「子どもたち、偶像から自分を守りなさい」。愛する子どもたちへ最後の言葉として送る重要な言葉が、偶像から自分を守りなさい、です。先週は死に至る罪があることを学びました。神を否定する罪は、赦しを与えるキリストを拒否するために赦されることはなく、死に至る罪でした。まさにそれは偶像崇拝の罪です。偶像崇拝こそが人を死へ誘いいのちを失わせる罪です。真実に神を知り、世的な価値観、常識、礼節、様々な形で悪い者から知らされた事柄から離れるのです。常識・礼儀だと思うこと。それらが本当に神様が期待することなのか。この世では自分を信じて頑張れと言いますが、聖書は違います。自分ではなく神を信じろと言います。自分は疑う対象です。神と神のことばを信じ、偶像から身を守りましょう。
2024.2.18
聖書箇所:ヨハネの手紙第一5章16~17節
説教題 :死に至る病
説教者 :片岡師
1.二種類の罪
人には赦される罪と赦されない罪があります。実際の裁判でも赦されないものと赦されるものがあります。赦される時には償いと更生が求められます。しかし赦されないと判断された時は死刑が言い渡されます。人の世界の裁判とは異なりますが、神様に対する罪も赦される罪と赦されない罪があるのです。
キリストによって人の罪はすべて赦されます。しかしキリストを信じなければ、赦しを与えるキリストを持たなければ罪が赦されることはありません。ヨハネはキリストの姿を曲げてしまう偽預言者、偽教師となったグノーシス主義者たちを想いながらこの箇所を記したのでしょう。彼らは真のキリストを知りながらキリストを否定し、偽キリストを作り上げ教えようとしました。それは救い・赦しを手放す行為であり、他の人にも手放させようとする行為でした。その罪を犯しているとしたら、キリストを否定しているため赦されることはありません。一方で赦される罪があります。それはキリストを受け入れながらも犯してしまう罪です。ヨハネも「罪を告白するなら神は赦し、不義からきよめてくださる」と言っています。ただそれは、真にキリストを信じる人にしか与えられない恵みなのです。死に至らない罪を犯すのは「兄弟」です。「神に求めなさい」と言われていることは大事なことです。いのちを与える神の御業に神様は人を用いてくださる時があります。ゆえにクリスチャンは謙遜に神に求める態度をなくしてはいけません。それがなくなる時、その人の正しさは「いのちを与える神の御業」ではなく、「いのちを失わせ傷つける人の業」になります。神に求め神の御心に従っていく時、私たちはいのちを与える神様の恵みの業をともにしていく喜びを味わうでしょう。
2.願うようにとは言わない
一方で、願うようにとは言わない、死に至る罪があります。それはキリストを知りながら否定する人たちです。この箇所はグノーシス主義によって教会から離れていった人々を想定しているでしょう。彼らは神を信じ神の教会に集う兄弟姉妹でした。しかし偽りのキリストを信じ離れていきました。いわば彼らは、自らの意思で神から離れて行った人々でした。彼らについてヨハネは死に至る罪を犯していると指摘しています。ただその彼らが再びいのちを得るように願ってはならないと言っているのではありません。故意に反対する人たちのために祈ってもよいのです。しかしその人がいのちを得るか死にゆくか、それは神様に委ねる態度が必要です。人に人を変える力はありません。ゆえに主権者であり、いのちを与える方である神に委ねることも必要です。私たちは特に親しい人であるほど、ヨハネの言う死に至る罪に居る人であったとしても救いを願うでしょう。であれば神様はどれほどそれを望んでいるでしょうか。
3.罪という病に対して
最後にヨハネはこう付け加えます。「不義はすべて罪ですが、死に至らない罪もあります」。
ヨハネは、死に至らない罪ならば、と軽視しないように注意しています。不義はすべて罪であり死をもたらすものです。ただ、キリストによる救い、赦しが与えられたために死に至らない罪をあるというだけで、すべての不義は罪なのです。ヨハネは教会に対して何を願っているでしょうか。それは教会の兄弟姉妹が互いを愛することです。「私たちが願うことは何でも聞いてくださる」と記したあとで、ヨハネは「死に至らない罪を犯している兄弟がいのちを得るように神に求めよ」と言っているのです。私たちクリスチャンに神様が期待しているのがこの愛と祈りです。
私たちの信仰の祈りは罪の病にある人を救うのです。自らが神の恵みと憐みによっていのちを得たのと同じように、私たちが思いを持って祈る人も神様によっていのちを得るのです。神様は秋に救われたキリスト者に、祈りにおいてその務めを果たすことを期待しておられるのです。永遠のいのちを持っている者に、神様はとりなしの祈りを求めておられます。
2024.2.11
聖書箇所:ヨハネの手紙第一5章13~15節
説教題 :神に対する確信
説教者 :片岡師
1.手紙の理由
ヨハネはこの手紙の執筆理由を「私たちの喜びが満ち溢れるためです」と1章3節で書いていました。今日読んだ箇所では「これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることをあなたがたにわからせるためです」とあります。
この二つは繋がっています。私たちの喜びが満ち溢れるのは、私たちが永遠のいのちを持っているからであり、それをわかっているからです。永遠のいのちを持っているとは、うちにキリストを持っているということです。ということは、イエス様が天の父と交わりを持ったのと同じように、私たちも神を父と呼び、交わりを持つことができるということです。神様と交わりを持つことができる。それが私たちに与えられた喜びです。かつては、神殿で生贄を献げて礼拝をしました。それでもなお垂れ幕が神と人を隔てていました。この垂れ幕が、人が罪によって神との関係に隔てが生まれたことと、神と人とが通常の交わりを持てないことを示す隔ての壁のようなものでした。その隔ての垂れ幕を、イエス様の贖いが取り去ってっくださったのです。それから人はイエス様を通していつでも神様と交わりをし、神を自らの父と呼び、私は神の子ですということもできるまでに関係が一変したのです。
2.神は祈りを聞いてくださる
ヨハネは14節、15節で祈りについて教えています。ヨハネの福音書14章13~14節も読んでみましょう。「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます」。
ヨハネが書いたこととほとんど同じことをイエス様が弟子たちに語っています。イエス様は弟子たちに祈るように教え、祈り方や祈りの意味も教えていきました。また主の祈りという模範を示し、ヨハネの福音書17章にはイエス様の祈りが記録されています。イエス様の祈りから学ぶことは、祈りとは決して神様に自分の願いを叶えてもらう方法ではないということです。祈りとは神様との対話で、双方向なのです。イエス様は「しかし、わたしの望むようにではなく、あなたが望まれるままになさってください」と祈っています。イエス様が私たちに教えようとしていること、それは神の御心と私たちの心が一つになるという喜びの生活です。
その方法であり、過程にあるのが祈りなのです。私たちが神様に祈り訴え願い問いかけるのと同様に、もしくはそれ以上に、神様が語りかけてくださる言葉、神様の御心に聴いていくことが大切です。自分や周囲の雑音からピントを外し、神様にピントを合わせていく時、私たちクリスチャンtは、神様と心を一つにする恵みと充足を得るのです。祈りは段階に分けて見ることもできます。願い訴える祈り、感謝の祈り、賛美の祈り、とりなしの祈りです。自分や取り巻く状況を見て、そこから神様に目を向け、神様を見上げながら神様の目線に立つのです。神様の目線に立つとは、神様の御心を知り、御心に歩むことです。私たちも、神様が喜んでくださるように生きようと心を一つにする時に、満たされていきます。
3.神に対する確信
神様はいつでも私たちの祈りに耳を傾けてくださっています。言葉にならない思いや、自分でわかっていないことまでも神様はわかっています。それでも祈るように言われているのです。祈りは神様が私たちを知るためではなく、私たちが神様と交わりを持ち対話する時間だからです。祈りとは神様との対話であり、自らの心を神様に寄せていく時間なのです。ですからいつでも祈るべきです。
神様は私たちの祈りを聞いてくださっています。そして、交わりを持つことを喜んでくださっています。神様はともに居てくださっている、聞いてくださっている。その確信の中で、祈りにおいて御心を知り、神様とともに生きる恵みを味わいましょう。
2024.2.4
聖書箇所:ヨハネの手紙第一5章6~12節
説教題 :神の証言
説教者 :片岡師
1.御霊と水と血
この手紙の中でヨハネが警告しているのは、グノーシス主義とそこから生まれた仮現論です。仮現論では人間イエスと神イエスを分けることをしました。この思想に反対し、教会が確かに真理に立つためにヨハネが主張していることは、イエスとは真実に人であり神であるというものです。もしイエス様が神と人の分離した存在で、十字架の時にその霊が離れたとしたら、救い主イエス様は人間として人間の罪を背負い贖うことができず、私たちの救いもありません。そこでヨハネはバプテスマの時も、十字架で血を流し死なれた時にも、初めから終わりまでいついかなる時もイエス様は神の御子イエス・キリストであり、変化することはないと主張しました。それが救いを受け取るためにはなくしてはならない真理だからです。ヨハネが何を指して水と血と書いたのか。絶対にこれだと説明はできませんが、イエス様のバプテスマと十字架が最も適切だと言えるでしょう。でも、ヨハネが私たちの受ける受洗や聖餐式やイエス様の脇腹から出た水と血。これもあったかもしれません。なぜならこれらも、イエス様が本当に人であり神であったことを示すからです。このキリストを証しするものが三つありました。御霊と水と血です。
2.神の証し
水と血に御霊が加えらr、この三つのものが証しをします。水と血は歴史的事実、御霊は現在も生きて私たちに働きかける体験的証しです。
三つのものの証しとは、その示すことが確かであるという保証です。聖書は時々裁判用語が出てきます。罪や裁き、赦しもそうですが、この「証し」も同じく裁判の証言のことばです。申命記には「二人または三人の証言によって立証されなければならない」と書かれています。それが事実なら一致し、間違いなら一致しません。イエス様の裁判の時、証言は一致しませんでした。人の証言は不確かですが、複数一致していれば信じるに値するとしたら、完全な神の証言であれば、一つでも十分ですがそれが三つあるとしたら口をはさむ余地の無い完全な証言です。神はイエス様が人であり神である救い主だと証ししています。もし神の証しを信じないとするなら、人は会を偽りの証言者、偽り者だと否定していることになるのです。
3.御子(いのち)を持つ
神の証しの目的は人々が信仰を持ち、キリストを受け入れ、いのちを持つことです。すべてのクリスチャンはこのキリストを示す神の証しを見て、聞いて、御霊の働きによって受け入れることで、証しの対象であるキリストを受け入れたのです。信仰の土台は神の証しにあるということです。キリストを受け入れる人には永遠のいのちが与えられます。キリストがいのちだからです。イエス様はご自分を指してこう言いました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」。「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」のです。私たちはいのちを持っています。獲得したのではありません。この世のいのちであっても、私たちは自分で手にしたのではなく与えられて生まれました。同じように永遠のいのちも自分で獲得したのではなく、神が一方的に与えてくださったのです。
私たちの救いと信仰はすべて神様の提供によってなされていることを感謝しましょう。神様が与え、神様が証しするキリストが私たちクリスチャンの土台なのです。御霊と水と血による神の証しです。
2024.1.21
聖書箇所:ヨハネの手紙第一5章1~5節
説教題 :喜びの命令
説教者 :片岡師
1.神から生まれた
「私たちの信仰、これこそ世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」
ところが、クリスチャンは自らが勝利者である、打ち勝った者であるというよりも、敗北している、足りない者であるという思いの方が強かったりするのではないかと思います、そして凄い人を見て自己卑下に陥ったり、弱い人を見下しては裁いたりすることもあるものです。神の命令はそれを守ろうと努力し、頑張る時、どうしようもない重荷となってしまいます。
クリスチャンは神から生まれた者です。キリストを信じた時、人はその霊において、一度世に対して死に、神に対して生きる復活のわざがなされています。そしてキリストにあって新しく生れた神の子です。神から生まれるとは、それまで教えられ培ってきた「この世の原理」や「この世の価値観」に基づいた生き方から離れ、「御国の原理・価値観」「神のことば」に基づいて生きるようになることです。
クリスチャンは、今すでに神によって新しく生れた神の子どもです、ですから神を愛し、兄弟を愛します。神を愛することは、兄弟を愛するところによって表現されるのです。故に、ヨハネが何度も言うように「神を愛し隣人を愛する」生き方を追い求めています。しかし、イエス様が言われた「神を愛し隣人を愛せよ」という戒めを真実に行っていると言えるものではありません。そこに葛藤が生じます、私は本当に神にふさわしいのだろうか。神の子だと言って良いんだろうか。「神の命令」を見て苦しくなります。イエス様が言われた戒めは極単純です。「愛せよ」それだけです。この単純な戒めが、私たちには非常に困難なのです。
2.命令は重荷とならない
「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」
神の命令を守ることが神を愛すること。これはそのまま同意できるでしょう。では「神の命令は重荷とはなりません」はどうでしょうか。神の命令は重荷とはならないでしょうか。神の命令が重荷とはならないのが人の正常な姿のはずなのです。しかし重荷となってしまうことが多いのです。みことばにそぐわない自分を見つめう時に、神の命令は重荷となります。それは私たちが罪を抱えている土の器だからです。罪を抱え、罪に傷ついているからです。人が造られた「神のかたち」は無くなっていません。しかし傷ついています。
それは割れた皿のようです。割れた皿は痛みを負っています。ちゃんと料理を乗せたいのに乗せられない。乗せたとしても破片が入ってしまったり、鋭くなったところが人を傷つけてしまう。そのように、神ではない、世の罪からくる文化や価値観や人間関係の中で、多くの人は傷ついているし、その傷が人を傷つけるものになります。互いに愛するのではなく、互いに傷つけ合うのです。そして神の命令に従うことを難しくさせてしまいます。例えば働くことは良い事です。勤勉に過ごすことを聖書は勧めています。一方で、休むのは悪い事だと思って休めない人がいます。何も無い時間があると不安になってしまう。それは勤勉とは違います。神様が与えた労働が喜びではなく重荷となります。そして休んでいる人を見ると怠け者だとイライラして裁いてしまう。社会文化や家庭教育などによって、みことばとは違う法則を持っていて、それが神の命令を重荷とさせてしまいます。ゆえに私たちにはキリストが必要であり、信仰によって世のものに勝利していきたいのです。
3.世に勝つ
世に勝つのは、立派な人でも、優秀な人でも、人格者や欠けの無い人ではなく、「イエスを神の御子と信じる者」なのです。人は欠けのある土の器ですが、キリストの覆いを被せられたのです。欠けた器に神の愛と恵みが注がれ、恵みに立って生きる者となったのです。気rストの恵みとあわれみは、私たちの痛みや苦しみを覆ってくださり、傷を癒してくださいます。人は互いを愛するのではなく、互いを憎み、傷つけてきました。全ての人は罪によって傷つけられ、傷つけてきたのです。しかしイエス様は深くあわれむ心と、真実の神の愛によって癒し立ち返らせてくださいました。イエス様は、医者を必要とするのは病人だと言われました。病気になって癒されなければならないのに、「いや頑張って仕事をします」とそのまま出勤するのが自分で頑張るクリスチャンです。仕事がとても苦しいものになります。人に病気をうつすかもしれません。そうではなく、主のもとに行き癒され、喜んで働くようになることが信仰の勝利です。聖霊はカウンセラーとも言われます。聖霊の助けによって自らの内にある世の価値観・世の律法に勝利して、主に従っていくのです。イエス様はご自分のもとへ来る人を罪から癒し解放し勝利者へと立ち上げてくださいます。それが聖化の歩みです。神の命令は私たちにとって縛り苦しめるものではなく、喜んでそれに応えることのできる命令、人にとっての恵みとなるのです。それを可能とするのは「イエスを神の御子と信じる信仰」です。信仰によって勝利しましょう。
2024.1.14
聖書箇所:ヨハネの手紙第一4章19~21節
説教題 :目に見えるもの
説教者 :片岡師
1.愛しています
ヨハネは「私たちは愛しています」と宣言します。手紙を受け取った教会は、教会の内部分裂を経て、本当に自分たちは神を愛しているのか、兄弟を愛しているのか戸惑っていたでしょう。この「愛しています」は現在進行形ですが、何を愛するのかという目的語がありません、「神を愛している」とも「兄弟を愛している」とも言わない。「私たちは愛しています」という宣言は、クリスチャンの状態です。愛をもって生きているクリスチャンのいつも変わらない態度です。「私たちは愛しています。神がまず愛してくださったからです」。その愛はすべての人を愛する愛です。その愛を受けて私たちは救われ「キリストのようになった」のです。キリストのように愛する人になったのです。神に救われキリストのようになった私たちが取るべき態度はいつも変わりません。愛することです。その愛は相手を選ぶことがありません。
2.目に見えるもの
「神を愛すると言いながら兄を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」(20節)
ヨハネはこの節でグノーシス主義となり、教会を去って行った人たちを想像しています。グノーシス主義は目に見える物質を軽んじ、目に見えない霊を重んじました。その思想は「神を愛すると言いながら兄弟を憎む」という態度に現れたのです。
ところで、「目に見えるもの」と「目に見えないもの」とはどちらが愛しやすいでしょうか。よく、付き合っていた時は仲良かったっけど、同居するようになったら喧嘩ばかりになって分かれてしまうという話があります。人は相手がよく見えるほど憎みやすい時があります。最初は印象が良かったけど、関係が続くと嫌な部分が見えてくる。目に見えない方が愛しやすいのかと思えてしまいます。しかし「見えていないから愛せていた」としたら、本当にその人を愛していたと言えるでしょうか。良いところも良くないところも見えた上で受け入れていく時に、本当に愛したと言えるのではないでしょうか。なぜなら「まず愛してくださった神様」は私たちが罪に汚れ悪いところしかない時に全てを知った上で、そのいのちを差し出すほどに愛を注いでくださったからです。だとしたら、私たちは目に見える兄弟姉妹に対してどのように愛すれば良いのか。目に見えない神様の御心はよくよく気をつけなければ見過ごしてしまいます。兄弟を憎んだり、怒りを抱えたままでいるのに、「そのままで良い」と納得し兄弟を憎みながら、神を愛していると言っていることはないでしょうか。神様はその人を愛することを求めています。
罪ある私たちには愛しにくい人がいます。頑なだったり、気難しかったり、傷つくことをされたなど様々なことがあって愛しにくい人がいるものです。相手に問題がある。でも、だから愛することができないとしたら、「愛せない」自分の問題です。人のせいにして自分自身の課題から身を逸らしてしまってはいないでしょうか。イエス様は救われてなお罪から離れることのできないでいる私たちを愛し、寄り添い、とりなし、力を与えてくださっています、そして私たちに聖霊という助け主を与えてくださったのです。
3.兄弟を愛する
もし私たちが誰かを軽んじたり、軽蔑したり、どうでも良いと、居てほしくないと思うなら、私たちはその兄弟を愛していないばかりか、神をも愛していない者となるのです。なぜなら、その人は神様がキリストのからだとして与えた一人であり、神が愛した一人であり、愛しなさいという命令に含まれる一人だからです。では私たちはどうすべきでしょうか。まずその人の祝福を祈りましょう。教会の兄弟姉妹のため、また、敵とも思えるような人のために本当に祝福を祈っていきましょう。納得のいかない気持ちが湧いてくるものかもしれません。しかしこの祈りを実行する時、私たちは本当にキリストの愛を体現し、キリストの恵みに感謝することができるのです。祈る自分こそが、神の恵みを味わうのです。
「私たちは愛しています」という態度について、自分はどのようですか?「目に見える」ものに対してどんな態度がありますか。祝福を祈っていきましょう。
2023.12.31
聖書箇所:詩篇100篇1~5節
説教題 :感謝の歌
説教者 :片岡師
感謝していますか。普段の生活の中でどれくらい感謝と賛美をしていますか。あまりしていないなと振り返ります。
感謝は信仰の深さであり、信仰の極意とも呼べるほど大事なものです。神様との交わりが深ければ深いほど、人は感謝が多くなるはずです。神様は真実なお方で、神様は愛をもって最善を成す方だからです。具体的な感謝の言葉にならずとも、神様への喜びが沸いてくるはずです。5節を直訳すると「主は良い方。主の愛は永遠。主の忠実(真実)は永遠」となります。
「恵み」と訳されているヘセドは神の愛を示す言葉です。それも契約的な愛です。神の愛は永遠の契約であり、とこしえまでその真実は変わらず、主はいつもいつまでも良いお方であると主を賛美しているのです。
この神様と、神様のご性質にあってクリスチャンは感謝が絶えない生活に変わるはずです。ところが、自分自身本当に感謝の少ない者だと反省させられます。
1.喜び
1節はヘブル語では叫べ!から始まります。2節は仕えよ!で始まります。力強い呼びかけからこの賛美の歌は始まっています。喜び仕えよ、賛美と感謝をもって主の前に集えと大きく、叫んで人々に呼びかけています。この詩篇は、本当に純粋に神様を喜んで、神様に感謝をささげて、喜びの内に主の前に集い、そして仕えていく。そんな詩篇です。しかし感謝や喜びは難しいことです。自分の意志によって出来る事ではありません。感謝しなさいと言われても、出来るのは口だけです。喜びなさいと言われても、出来るのは演技です。心に感じることができなければ本当に感謝と喜びをささげること、神様を賛美することはできません。感謝するには、信仰が必要です。良い事に感謝することはある程度できるかもしれません。出来ない人も居ます。成功した時、神様や人に感謝するよりも成功した自分を自慢する時もあります。でも、神様を信じて、神様が創造主・全てを治め恵みを与えて下さる方であると知れば、神様へ感謝するでしょう。
また不都合な事や損害があった、嫌な事がある時、感謝できるでしょうか。ダビデの詩篇には苦しみや不満を訴える内容が多くあります。神様は最善を成す方です。でもその最善は、人を神様へ近づけるための最善です。だから人の目には素直に本当に神様の恵みだ祝福だという飴を与える業もあれば、何でこんな苦しいんだろうという鞭もあります。飴も鞭も使い方を誤れば人を死なせます。でも神様は人を生かし育てるための最善を成す方です。神様は、産まれたばかりの人には食べやすい、受け取りやすい食べものを与えます。でも成長してくると固い食べものだったり、自分で調理してみなさいと課題を与えてきます。多くの場合は信仰の歩みの中で苦痛や悩みがあった時こそ、人生に影響を与える大きな神様の恵みを経験するでしょう。信仰生活において苦しいと感じる何かがある時、神様は何かを教えようとしています。だからといって渦中にあって悩む人に、いつも喜んでいなさい感謝しなさいと聖書にあるだろうと責めるのは、ヨブの友人がヨブに取った態度です。ヨブは信仰深い人でした。でも子供を失い、財産を失い、わけのわからない病気になり、見まいに来た友人とは口論になる。全てを失った中で、神様に訴え続け高慢を砕かれ主を賛美しました。ヨブが悔い改めて、友人たちの為に祈った時、ヨブはまだ回復していません。神に訴え、不当だとわめき、最大の苦しみ、その中で神の語り掛けを聞き、神をあがめ神に従ったのです。それはヨブの神賛美です。
私達は一信徒として、一神の民として、一神の子としてどう神を賛美し神を喜びますか。主のしてくださったことを何一つ忘れるな。人は主のしてくださったことを忘れます。だから思い起こしていく必要があります。
2.神様を見上げて
年を取ることの祝福の一つは、感謝すべき事、主の恵みの体験が増えることです。生きた年数がそのまま、神の恵みによって生きた年数だからです。長く生きれば生きるほど、感謝は増し、神様への喜びは深まっていく、またそういう信仰へ成長させられていく恵みに与っています。一年が過ぎたことは、神様へ感謝すべきことが増えたはずです。逆に経験を積むほど、感謝よりも不満を感じるようになる一面もあります。結婚して一緒に居るだけで幸せで、共にした時間が多くなると喜びが加わるよりも不満が募っていくように。
神様はクリスチャンがこの世で苦しみに合う事を伝えていますが、それは世に罪があるからであって、神様は私達クリスチャンを苦しませようとしてるのではなく、喜び楽しむ人生を送らせようとしています。だから神様が成してくださることは全て、私達がより深く神様を喜び賛美する豊かな人生を送るためのものです。精神的な苦痛がある所には、神様の業が隠されています。神の業を見出し神を見出していく時に、私達は本当に神様を喜び神様を賛美し神様に感謝をささげることができます。
ダビデの詩篇を読んでいくとダビデは神様へ不満や苦しみの言葉を訴えています。でもそれが祈りの中で神様への賛美の言葉へと変化していきます。神様を見出すからです。不満を呟いて終わってしまえば、良い物はもたらされません。でも祈り、神様に向かう中で神様の真実、神様のあわれみ、神様の恵みを見出し、謙遜になる時、人は神様への感謝と賛美に導かれます。人間的に見て良いと思う事も悪いと思う事も、全て最善を成す神様の御手の中にある。その信頼と信仰にあって、人はいかなる時も感謝をささげる事ができます。感謝できない、受け入れられないことについては、そこに見出すことを期待している神様の御思いがあります。
この一年、それぞれに働かれた神様のわざがあります。ない人は居ません。全ての人に神様は恵みを与え、ご自身を示し、更に深く神様との交わりを持つ者となることを期待し働きかけて下さっています。私達は神様のわざを見出し感謝し、神様を知り賛美し、いつも神様への喜びが絶えない。そんな日々を過ごしていきたいのです。気を付けていないと、口から出る言葉はつぶやきが多くなるようなものです。不満ばかり言ったイスラエルの民と同じです。感謝するというとどんな良い事があったかと考えてしまいますが、思わずつぶやきたくなる事柄にあっても、そこにある神様の示し、期待、わざを見出し感謝する信仰生活を送り続けていきたいと願います。主はいつも真実で最善を成す方だからです。
2023.12.24
聖書箇所:コリント人への手紙第一15章1~11節
説教題 :良い報せ
説教者 :片岡師
人は大なり小なり、生きる意味、または自分がこの世で生きた意味を求めます。終わりを自覚する時、死にゆく自分には何も残らないことを覚える時に、何のために私は生きてきたのだろうか、と虚しくなります。私たちが今日考えたいことは、どう生きるかより根本的なこと。私たちが最終的にどうなるかです。どう生きるかは最後を見据えた道筋です、終わりがあるからどう生きるかを考えるのです。
コリント人への手紙は、パウロという人が教会に宛てて書いたものです。パウロはキリストを否定し、教会を迫害し、クリスチャンを攻撃していました。パウロは神を信じ正しいことをしていると確信しながら、神様に反対する活動をしていたのです。十字架で死んだあのような者が救い主であるはずがないと思ったのです。神様はそんなパウロに直接語り掛け、特別な体験を通してイエス・キリストこそが待ち望んでいた救い主であることを示しました。この体験によってパウロが神に示され理解し受け取ったこと、それがキリストの福音です。聖書に書いてあるとおりに、キリストは私たちの罪のために死に、葬られ、よみがえった。それが福音です。なぜこれらが福音、良い報せなのでしょうか。それを知るために、まず人は罪を抱えていることを知らなければなりません。罪とは神には引退する心と行いです。聖書には最も有名な戒めとして十戒があります。①唯一の神を信じよ。②偶像を作るな。③神の名をみだりにとなえるな。④安息日を守れ。⑤父母を敬え。⑥殺してはならない。⑦姦淫してはならない。⑧盗んではならない。⑨偽証してはならない。⑩隣人の物を欲しがってはならない。私たちはそれを完全に行うことができません。神様の基準では、これらに背く心があるだけで違反になるからです。誰かと関わりを持つ時、そこに愛から来るものではない思いを抱くとしたら、それは罪を犯しているのです。
怒りも憎しみも嫉妬も抱きたくありません。悪口も言いたいわけではありません。でもそれを止めることができません。なぜでしょう。人には罪の性質があるからです。全ての人には罪という性質があるのです。それは不治の病で癒すことができない病です。だから福音が必要でした。
パウロは、あなたがたは「福音によって救われる」と記しています。努力、功績、善行、金銭などの行いによって救われるのではなく、「福音によって」人は救われるのです。その福音とは3節から5節です。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」。
「キリストは罪のために死なれた」。人は罪から逃れられず償うこともできず、死ぬしかありませんでした。しかし神様は人を救おうと計画を立てたのです。それがキリストです。神の子であり、唯一罪のないイエス様だけが、罪を肩代わりすることができました。肩代わりできるのは本来さばきを受けるべきでない人だけです。神様が世を見ると全ての人に罪がありました。だから神様は、罪の無い神様ご自身が人となって罪を肩代わりし死なれることで、人が死なないでも良い道を作ってくださいました。それがイエス様の十字架です。しかし一つ条件があります。それがキリストが自分の罪のために死なれたことを受け入れることです。信じた人は救われます。でも人は死にます。イエス様も死にました。しかしイエス様は聖書に書いてあるとおりに死に、よみがえったのです。当時はその目撃証言がたくさんありました。死は今も消えていません。しかしキリストがよみがえったなら、今イエス様によって無罪とされたクリスチャンもまた、一度死ぬとしても、時が来たらよみがえるという希望があります。
神様は死から救うためにキリストを与えてくださいました。「わたしが助けるから」と差し伸べる手を払いのける。それがキリストを拒否することです。救いの手を握るには自分が弱く、力のない、助けられなければならない存在なのだと謙遜にならなければなりません。いわば自分に死ななければならないのです。
でもその手を握った人には永遠のいのちが与えられます。私たち人間は、そこに向かって生きていくべきなのです。福音とは、人が死という滅びに向かって生きるのではなく、永遠といういのちに向かって生きることができるという、救いの報せです。
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