2022年の礼拝メッセージ概要

2022.5.1

聖書箇所:ルカの福音書10章25~37節

説教題 :隣人になる

説教者 :片岡師

・イエス様は隣人になってくださった

 良きサマリヤ人はイエス様で、イエス様が私たちの隣人となってくださいました。

 イエス様が隣人となってくださり、救われた者として、私たちもまた、神様が助けるようにと出会わせてくださった人の隣人となりたい。

2022.5.8

聖書箇所:士師記8章22~35節

説教題 :罠となった

説教者 :片岡師

・治める人を求めるイスラエルの民

 イスラエルの民は治める者(王)を求めました。ギデオンはそれを断り、「治めるのは主である」と返しました。

・エポデが招いた偶像崇拝

 正しく応答したギデオンはその後エポデを作って町に置きました。それは後の民の偶像崇拝につながりました。

・罠、落とし穴

 エポデ作成は罠となりました。ギデオンは民からの求めは断りましたが、自分から出たことで民の目を主から逸らす結果となりました。

2022.5.15

聖書箇所:ヨハネの福音書6章1~15節

説教題 :5千人の給食

説教者 :片岡師

・待ち望まれた救い主

 イエス様のいやしのしるしを見て、群衆はイエス様についていきました。群衆の期待は国を再建する改革者、必要を満たしてくれるキリストでした。彼らの期待しているものは、実際に与えられる「罪を赦すキリスト」とは違うものではありましたが、群衆がキリストを待ち望んでいたことをも表していました。

・ピリポ(弟子たち)を試すイエス様

 イエス様は「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」とピリポに言われました。ピリポもアンデレも、5千人の人たちに食べ物を用意することは不可能だと思いました。

・主の養い

 イエス様は群衆を座らせ、パンと魚を彼らが望むだけ分け与えられました。

・イエス様が与えるいのちのパン

 イエス様は後に、「わたしがいのちのパンです」と言われました。主は霊的にも肉的にも、私たちを養ってくださっています。

2022.5.22

聖書箇所:ヨハネの福音書6章16~33節

説教題 :いのちを得る

説教者 :片岡師

・いのち、生きることについて

 いのちを与えるとは「生きる者とされる」ことです。イエス様が言われる「生きる」ことと、群衆の考える「生きる」ことは違うものでした。

・ヤコブ2章26節「からだが霊を欠いては死んでいる」

 私たちはイエス様の死と復活を信じることで救いを受け、イエス様の復活に与るものとされました。このことによって、私たちは死んでいた状態から「生きる者」とされたのです。

・行いではなく、神のわざによって生かされる。

 ヨハネの福音書1章12~13節には、「-この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は…ただ、神によって生まれたのである」と書かれています。イエス様を信じることによって、私たちは永遠のいのちをいただくことができます。

 イエス様は、「永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」と言われました。朽ちる食べ物のためではなく、永遠のいのちを与えてくださる主を求めて、主のために働くことが求められています。

2022.6.5

聖書箇所:ヨハネの福音書15章26~27節

説教題 :その方が

説教者 :片岡師

・助け主(聖霊)が送られる

 イエス様は私たちが負うはずだった罰を、私たちの代わりに負い、罪の赦しを与えてくださいました。そしてそれに留まらず、助け主なる聖霊を与えてくださいました。こうして罪の赦しを得た後も、(罪に対する)勝利の生活を送れるようにしてくださいました。

・戒め→互いに愛し合いなさい

 イエス様は13章から繰り返し「愛し合いなさい」と言われています。

 26節の後半から27節には「-その方がわたしについて証ししてくださいます。またあなたがたも証しします」と書かれています。私たちはどのようにして証ししていくことができるのでしょうか?私たちは、イエス様が「新しい戒め」として繰り返し語られた「互いに愛し合う」生活を通して、イエス様を証しすることができるのです。

2022.6.12

聖書箇所:士師記9章1~6節

説教題 :誰が治めるか

説教者 :片岡師

・アビメレク→シェケムのそばめの子ども

 シェケムは占領されておらず、シェケムの人とイスラエルの人は同居している状態でした。シェケムの人を娶ることは、偶像崇拝の危険を孕んでいました。

・アビメレクとギデオンの共通と違い

 アビメレクもギデオンも、兄弟たちの中で弱く、小さな者でした。ギデオンはイスラエルの人に「自分たちを治めてほしい」と言われた時、「私も私の息子もあなたがたを治めません」と、治めることを拒否したのに対し、(ギデオンの息子)アビメレクは「70人で治めるのと、(私)一人が治めるのとどちらがどちらが良いか」とシェケムで問いかけさせ、自分が治めようとしました。

・樫の木の側の石柱

 シェケムの人々がアビメレクを王としたこの場所は、人々が「私たちは主に従います」と誓いを立てた場所でした(ヨシュア記24章20~27節)。彼らのやったことは主に対する不義でした。

 私たちは主の前に自らを省みて、「私の主はキリストです」と応答していく者でありたいと願います。

2022.6.19

聖書箇所:士師記9章7~15節

説教題 :王となってください

説教者 :片岡師

・主は語りかけてくださる

 アビメレクは自分の兄弟を人を使って虐殺させましたが、ヨタムは隠れていて難を逃れました。

 ヨタムはたとえ話を使って、アビメレクとシェケムの人たちに語りかけました。

 たとえ話を通して、私たちは自分がどのようなものかを客観的に見つめることができます。イエス様もよくたとえ話を用いて語られています。

・オリーブ、いちじく、ぶどう→ギデオン、繁栄の証

・木々→シェケムの人々

・いばら→アビメレク

 オリーブ、いちじく、ぶどうは、神と人とをあがめるための油、良い実、また神と人とを喜ばせるぶどう酒などの祝福を表していました。これは自分に与えられた賜物ということができます。

 対して、いばらは役に立たないものである上に、燃えやすく、他のものを焼き尽くすものでした。

・オリーブ、いちじく、ぶどうは自らのものを仕えるために用いた

・いばら、木々は自分の益を求めた

 ギデオンは、人の上に立ちたい、偉くなりたいと思わずに、自らの賜物を、神と人とに仕えるために用いました。

 しかしシェケムの人々とアビメレクは、お互いが自分の益を求めて行動しました。

2022.6.26

聖書箇所:士師記9章16~21節

説教題 :行動の本意

説教者 :片岡師

・誠意と真心を尽くす

 ヨタムはさらに、シェケムの人々に対して、「あなたがたは誠意と真心をもってアビメレクを王としたのか」と問いかけます。

・自己中心、自己利益

 シェケムの人々は自分中心に考え、「他の国のように王が欲しい」「自分にとってメリットがある王が欲しい」と考えました。そのため、自分たちの身内の者(シェケム出身)であるアビメレクを王にしました。

・世的な自己愛、聖書的自己愛

 シェケムの人々やアビメレクは自分を愛し、自分のために行動しましたが、聖書は自分を愛することを否定してはいません。神様を信じる人は、神に造られた者としての自分を愛します。そして同じく神に造られた者としての隣人を愛します。このように、神様を根拠とした自己愛は他の人を否定するものではありません。

・神を侮る、神を畏れる

 神様を畏れない人々の中で、信仰者たちが神様を畏れる生活をすることは、聖書が教える「地の塩、世の光」として生きることです。

 多くの人は神様を知らない価値観の中で生きています。けれども信仰者は神様を知っています。私たちは、自分ではなく、神様を喜ばせる生き方を自分の喜びとする生き方。御国の価値観をもって歩む者でありたいと願います。

2022.7.3

聖書箇所:ヨハネの福音書6章34~51節

説教題 :そのパンをください

説教者 :片岡師

・食べ物とからだ

 食べ物は私達の体を成長させ、生命を維持するものです。イエス様は5千人の給食によって人々を養いましたが、真に必要な食べ物は永遠のいのちを与えるパンです。

 その「いのち」とは肉体のことではなく、魂や霊といわれるもののいのちであり、魂や霊に「いのち」があるとは全てを創られた神様との関係を持つことです。

・キリストは来るものを拒まない

 「 父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。」(ヨハネの福音書6:37)

キリストはご自分の元に来る人を決して追い出すことはなさりません。追い出さない、つまり捨てることなく「いのち」を与えてくださいます。いのちが与えられた人は、神との関係を回復し永遠のいのちが与えられるのです。

・神が引き寄せて下さる

 キリストを信じることは、勉強したり考えることではできません。罪に生きる私達人は自力でキリストを受け入れることができません。そのために神は私達人をご自分の元へ引き寄せて下さり、キリストを教えて受け入れるようにしてくださるのです。

 キリストは私達の罪からの救いの為に十字架で死なれました。それは父なる神のみこころでありました。そればかりでなく、そのキリストを受け入れることができるように私達を引き寄せて下さるのです。それは神の愛です。その救いと招きに感謝します。

2022.7.10

聖書箇所:ヨハネの福音書6章52~59節

説教題 :いのちにとどまる

説教者 :片岡師

・イエス様のしるし

・しるしとしてのパンとぶどう酒を味わった人々

 人々はしるしとしてのパンとぶどう酒を与えられました。

・理解しない人々に表現を変えないイエス様

・語るべき真理があった

 イエス様は49~51節で、「あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。わたしは、天から下って来たパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、私が与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」と言われました。これを聞いて、ユダヤ人たちは、どのようにして自分の肉を与えることができるのか、と議論を始めました。

 これに対してイエス様は、表現を変えることなく語られました。それは、そこに語るべき真理があったからです。

 ユダヤ人たちには律法が与えられていましたが、律法を守ることによっては、人は救われること(罪赦されること)ができません。人が救われるためには、キリストというパンといのちを享受しなければいけません。ここには、「自分で自分の罪をどうにかすることはできない」という真理がありました。

 キリストのパンとぶどう酒によって人は救われ、霊的に生きていくことができるのです。日々キリストにとどまりましょう。

2022.7.17

聖書箇所:ヨハネの福音書6章60~65節

説教題 :父が与える

説教者 :片岡師

・キリストを受け入れるハードル

 弟子たちは、イエス様がご自分の「血や肉を食べなければならない」と言われたことを受け入れることができませんでした。

・キリストが天に上げられるのを見たら

 イエス様の復活は多くの人がつまずきます。神様の導きが無ければ、人は復活を信じることができません。みことばを理解すること、受け取ること、信じることは、神様が与えて、引き寄せてくださらなければできないのです。

2022.7.24

聖書箇所:ヨハネの福音書6章66~71節

説教題 :離れ去る

説教者 :片岡師

1.共に歩もうとしなくなった

 五千人の給食や癒しを聞いた人々はイエス様について来ました。しかし、イエス様が「いのち」について、血と肉を食べる(信じる・服従する)ことを求めた時、人々は去っていってしまいました。

 66節には「多くの者が離れ去り」とありますが、信仰の目が開かれた人たちは留まりました。福音を聞いた時、誰が留まり(信じる)、誰が去る(信じない)のかを、イエス様は知っておられます。けれどもイエス様は、信じる人々にだけ語るのではなく、信じない人々のためにも語られました。信じる私たちもすべての人に福音を伝えなければなりません。

2.ペテロの信仰告白

 「あなたがたも離れて行きたいのですか」というイエス様の問いかけに、ペテロは答えました。ペテロがキリストを真に理解していたのかというと、そうではなかったと思われます。しかしその中でも確信を持って答えたのがペテロでした。

3.あなたがたを選んだ

 イエス様は十二弟子を選ばれ、彼らはその選びに応えて従ってきました。ペテロは68~69節で「あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています」と言っています。するとイエス様は70節で「わたしたあなたがた十二人を選んだのではありませんか」と言われました。主を信じるのは、私たちが主を知っているからではなく、主が私たちを選んでくださったからです。

2022.8.7

聖書箇所:士師記9章22~29節

説教題 :反乱の兆し

説教者 :片岡師

1.暴虐への報い

 アビメレクの三年の支配によって、シェケムには不満が溜まりました。そこで彼らは山でアビメレクを待ち伏せし、そこを通る人々から略奪を行いました。自分の望みのために人から奪うやり方を、彼らは続けていたのです。

 クリスチャンのやり方は逆で与える生き方です。与えられている恵みを覚えているからこそ、クリスチャンはその恵みを分かち合うことができます。そして与えることに喜びを持つのです。

2.憎しみの事件

 反乱を企てるシェケムに、ガアルという人物が来ました。ガアルはかつて行われたヤコブの息子たちによる殺戮と略奪(創世記34章のディナの事件)を思い起こさせ、シェケムの人々の憎しみを駆り立てました。

3.誤魔化し

 一見正当に見えますが、以前はアビメレクの母が身内なのを見て自分たちの王にしたのに対し、今度はアビメレクの父ギデオンを見て「憎むべき」とする身勝手なものでした。

 このように理由を後付けし、自分を納得させる(正当化する)のが人の心です。私たちはこのようなことをしがちです。正しいことをしないことを、色々な理由をつけて「できない」のだと自分を誤魔化します。

 エレミヤは「人の心は何よりもねじ曲がっている」と書いています。

 イエス様が十字架で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」と祈られたことを思い起こしたいと思います。ねじ曲がった心を知るのも神様だけであり、正すことができるのも神様だけです。私たちもそのように、神様にとりあつかっていただけますように。

2022.8.14

聖書箇所:士師記9章30~40節

説教題 :反乱の鎮圧

説教者 :片岡師

1.ゼブルの報告とアドバイス

 ガアルとシェケムの人々がアビメレクへの反乱を起こしていく中、町の長ゼブルはアビメレクに使者を遣わして報告し、それに適したアドバイスを送りました。

 シェケムの人々は、自分たちに近しいガアルを、「自分の方がガアルより優れている」と語るガアルを受け入れました。ギデオンの他の息子たち七十人で治めるのと、アビメレクが治めるのとどちらが良いか、と問われた時に、自分たちに近しいアビメレクが良い、と判断した時と似ています。

 人の「ことば」を聞いて、「こっちが良い」「次はこっち」と鞍替えしていくシェケムの人々。物ならばそれで良いかも知れません。しかし、人生についてそのようにして良いはずがありません。真理は一つしかないのです。

 ひたすら真理を追い求めていくのは簡単ではないかも知れません。パウロはクリスチャンの歩みを冠を得るスポーツに例えていましたが、それには相応の苦闘や他のものには目もくれないような真剣さをもって取り組んでいくべきだというメッセージがあります。

2.ガアルの敗走

 ガアルの語った「ことば」によって鎮圧が動き出し、ガアルの「ことば」を聞いたことによってシェケムの人々は自分の身に滅びを招きました。

 シェケムの人々が刺し殺されたのを見る時、私たちは彼らが主に背いていたから、と考えます。私たちの日常で同じことがあった時、どう捉えるでしょうか?

 私たちは、問題の本質を忘れないようにしたい。その根柢は主の「ことば」を聞き、それに従うかどうかです。

3.多くの者が刺し殺された

 私たちの土台は聖書信仰です。私たちが本当に耳を傾けるべきは主の「ことば」です。牧師の「ことば」でも、先達や学者の「ことば」でもなく神様の「ことば」です。

 シェケムの人々は、人を見て、人の「ことば」に頼ったために自らの身に滅びを招きました。良い意味でも悪い意味でも、「この人がいうから」と考える時、私たちは主ではなく「人」を見ているのです。

 

 今日は、ことばを聞いてその報いとして滅びを招いたシェケムの人々、そしてことばを語ったことでその報いを受けたガアルを見ていきました。

 私たちは日々何を聞き、何を語っているでしょうか?

2022.8.21

聖書箇所:士師記9章41~49節

説教題 :反乱の鎮圧2

説教者 :片岡師

1.鎮圧の継続

 シェケムの人々が殺され、ガアルも追い出されましたが、それでアビメレクのシェケム鎮圧は終わりませんでした。アビメレクは、やる時には徹底的にやる性格だったのかも知れません。ここには凄惨な内容が書かれていますが、これらの出来事の背後にも神様が働いておられることを忘れてはいけません。

2.徹底的な浄化

 アビメレクは町の外の人を討ち取った後、そのまま一日中町を攻めました。彼はその町を破壊して塩をまきました。塩をまくのは、二度とその町が再建されることはない、「永遠の廃墟」であることを示す行為です。アビメレクはこのように徹底的に浄化を行いました。

3.安全だと思われた地下室は逃げ場を無くした

 それでもまだ生き残っているシェケムの住民がいました。46節には「シェケムのやぐらの住民たちはみな、これを聞いてエル・ベリテの神殿の地下室に入った」と書かれています。やぐらは通常町の中に作られるものですが、シェケムは町の外にありました。そこにはシェケムの聖所があり、防壁に囲まれた場所でした。住民たちはその神殿の地下室に逃げ込みました。それに対してアビメレクが行ったのは焼き討ちでした。

 約千人がこの焼き討ちによって死にました。シェケムの人々はこうして、ヨタムが言った通り、アビメレクという茨から出た火により、文字通り焼かれることになりました。

 

 このアビメレクとシェケムの出来事の背後にも神様がおられます。神様がこの時代の治め主として働いておられるのです。これらの出来事を神様の目線で見るとどうなるでしょうか?

 神様は侮られるお方ではありません。

 罪はさばかれる時があり、神の義が遂行されます。

 人が拠り所とするべき「やぐら」は真の神のみです。

 

 次週はアビメレクの終わりの箇所を見ることになりますが、そこでも神様から「報いを返された」ことが強調されています。

2022.8.28

聖書箇所:士師記9章50~57節

説教題 :悪の報い

説教者 :片岡師

1.テベツ占領

 アビメレクの侵攻に対して、テベツでは男女すべてがやぐらに逃げたため、おそらく戦いと呼べるものはなかったと思われます。アビメレクはシェケムと同様にここも火で焼こうとしました。しかしそれがアビメレクにとっての罠となりました。

2.アビメレクの死

 焼き討ちにするためやぐらに近づいたアビメレクに、一人の女が投げたひき臼の上石が命中したことにより、アビメレクは死ぬことになりました。神様は偶然と思われる方法で御業を行う時があります。例えば第二歴代誌18章では、一人の兵士が「何気なく」射た矢がイスラエルの王を射抜きました。「何気なく」は神様の驚くべき御業を示しています。

 神様は力の無い女性を用い、偶然のような形で御業を行われました。神の栄光を明らかにするために、神様は弱い者、力の無い者を用いられました。神の御業を行うために私たちが持っていなければならないものは「信仰のみ」なのです。

3.神が報いを返された

 神様は悪をさばき、報いを与えられました。

 ガラテヤ人への手紙6章7節~10節では「神は侮られるような方ではありません。・・・失望せずに善を行いましょう」と勧められています。私たちすべての人は罪を抱えています。そのため私たちは皆神様からの赦しを受ける必要があります。赦しを受け取り、神様の子として善を行いましょう。神様は見てくださっています。神様は侮られるお方ではないからです。

2022.9.4

聖書箇所:ヨハネの福音書7章1~13節

説教題 :わたしの時

説教者 :片岡師

1.仮庵の祭り

 仮庵の祭りはユダヤ三大祭りの一つで、九月から十月初めにかけて八日間行われます。仮庵の祭りは、かつて先祖が荒野を放浪していた時、神様が幕屋に宿って彼らを守られたことへの感謝を新たにするものでした。ソロモンの時代から、神殿は神様の臨在があるところとされ、神様と出会うことのできる場所とみなされていきました。しかし、かつての幕屋においても、また神殿においても、神様の臨在は完全には表されていませんでした。神様のご計画の中では、神の臨在の完成形は「私たち(信仰者一人ひとり)が神の神殿になる」ことで、神様がすべての信仰者のうちに住まわれるということでした。

2.わたしの時、あなたがたの時

 イエス様の兄弟たちが言ったことは、活動としては筋が通っていました。しかし、イエス様には神様の計画を行うという明確な目的がありました。

 「わたしの時」は良いタイミング(機会)のことです。イエス様には祭りに行くべき時がありました。このように、ものごとには「神様の時」があります。

3.人々の反応

 祭りの場ではイエス様のことが話題になっていました。イエス様を「良い人だ」と話す人もいれば、「惑わす人だ」と言う人もいました。

 ユダヤ人たちはイエス様を探していましたが、彼らはおそらくイエス様を殺そうとして探していました。「世はイエス様を憎む」と言われているとおりです。それはイエス様が「世の行いが悪いことを証しするから」です。

 パウロは「この世と調子を合わせてはいけません」と言いました。イエス様も世から憎まれることを何度も語りました。しかし神様を愛し、世の人を愛するがゆえにその使命を全うされました。

 イエス様の兄弟たちはイエス様を信じず嘲笑する態度でした。人々は「良い人」だと言ったり「惑わす人」だと言い合いました。ユダヤ人たちはイエス様を殺そうとしました。私たちはそのような世にあってイエス様をどのようなお方だと告白するでしょうか?まことの光であり、世の救い主であると告白し続けるものでありましょう。

2022.9.11

聖書箇所:ヨハネの福音書7章14~24節

説教題 :正しいさばきを行う

説教者 :片岡師

1.誰の教えか

 お忍びで祭りに行ったイエス様は祭りの半ば、祭りの興奮や動きが一番落ち着いたころになって教え始められました。イエス様が語った教えは人々を驚かせました。そして、誰の教えなのかが問題になりました。イエス様が自己流に学び教えていれば問題でしたが、イエス様の教えは「わたしを遣わされた方」の教えでありました。

 その教えが誰からの教えかを見分ける術は「みこころを行おうする」ことにあります。行動することで、人は神様の教えを実際的に知ることができます。

2.イエス様とユダヤ人の論争

 イエス様は安息日に癒したことで責められていました。それに対して、割礼が安息日にも行われていることを引き合いにイエス様はご自分の正当性を主張しました。割礼という神の恵みを覚えるための医療行為が認められるならば、より完全な恵みとしての癒しは認められるべきです。「うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。」人々はうわべ、見かけで人を裁いていました。人の常識、人の慣習によってイエス様を見、神の教えを見ていたのです。

 世の教えから遠ざかり、みこころを行う決心をすることから、神の教えを確かにしていきたいと思います。

2022.9.18

聖書箇所:ヨハネの福音書7章25~36節

説教題 :遣わされた方

説教者 :片岡師

1.キリストが来られるとき

 論争の中、ある人々は「議員たちはイエスがキリストであると認めたのではないか」と思い始めていました。その思いには、ユダヤ人たちが救い主を待望していた背景も関係していたと思われます。そのため、奇跡を行い、教えをするイエス様に期待を感じていたとしてもおかしくありません。

 そこで彼らは、見聞きしたイエス様とそのことばを信じるのか、自分たちが信じてきたものを握り続けるのか、その選択を迫られました。保険をかけるように双方を取ることはできません。

2.この方がキリストか

 「私たちはこの人がどこから来た方か知っている」と言う人々に、イエス様は「あなた方は神を知らない」と言われました。それは彼らが最も知るべきことでした。神の民であるユダヤ人に対して、(あなた方は)神を知らないと言われたのです。

 自らを神様から遣わされたと語られたイエス様は、神の冒涜罪に問われることになります。

 神様を知っていると信じて疑わなかったユダヤ人たちは、ほかならぬ神のひとり子を否定し、拒絶したのです。

 クリスチャンである私たちは、神様を知っていると言えるでしょうか?

3.遣わされた方のもとに

 「あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはない」とイエス様は言われました。

 捕らえるために捜すのではありません。イエス様が神の子であったとして後から捜すようになった時、見つけることができないのです。「時すでに遅し」となることをイエス様は言われたのです。

 「遅い」となる前に、キリストを見出すものでありたいと願います。

2022.9.25

聖書箇所:ヨハネの福音書7章37~53節

説教題 :この方は何者か

説教者 :片岡師

1.渇いている者

 過ぎ越しの祭りは出エジプトを記念したものです。過ぎ越しの祭りの終わりの日には、祭司が水を運んでいました。それは荒野の旅で水を求め、主が水を与えてくださったことを記念していました。

 37節後半から38節には「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れるようになります」とあります。生ける水が人の心の奥底から流れ出るようになります。これは「聖霊が与えられる」ことを指しています。人は渇きを覚えています。その渇きは心の奥底、魂の渇きです。しかし私たち人の魂・心は渇いて頑なな岩なので水が湧き出るはずもありません。それを主は、水が川のように流れる心に生まれ変わらせると語っているのです。

2.人々の分裂

 ある人はイエス様を認めようとし、またある人は「キリストはガリラヤから出るだろうか」「ベツレヘムから出ると、聖書は語っているではないか」と否定します。実はイエス様が生まれたのはベツレヘムであったのに、それを確認しようとせず、知っている事柄で判断してしまいました。

 聖書はこう言っているではないか、と、彼らは聖書という正しい規範を持っていました。しかし、その聖書が示す真理を見出すことができていませんでした。

3.ニコデモの弁護

 パリサイ人たちは、役人や群集が律法を知らずに惑わされている、と断じました。そこでニコデモが登場します。ニコデモはイエス様の下に行き、直接話をしてイエス様を認めている人です。ニコデモは律法の基準にあわせて、イエス様の話を聞くように促しています。彼の行動について消極的だと見る見方もあります。しかし彼は大事な役割を担っていました。祭司や律法学者たちは「自分たちこそが律法を知り、正しいと高ぶるあまり盲目的になっていました。しかしニコデモはそのような中で、きちんと話を聞くべきではないか、それが私たちが信じる律法に従うことではないか、と語っているのです。ニコデモの言葉はこれでは足りないというものではありません。神様はいつも私たちに助言を与えてくださっています。それに耳を傾けられるように、謙遜でいなくてはならない、と受け止めるべきではないでしょうか。

 

 「義に飢え渇く者は幸いです」とイエス様は言われています。義に飢え渇くのはキリストの義認を求めることとは少し違います。キリストのように義なる人となることを求めることです。義人になることを飢え渇き求める人。それは幸福を求めることではありません。内に義がないことに絶望し、義に飢え渇くことです。そこに主は水を与え、いのちの水が流れるようにしてくださるのです。

2022.10.2

聖書箇所:士師記10章1~5節

説教題 :影に隠れた士師

説教者 :片岡師

1.アビメレクの死後

 トラとヤイルはほぼ名前が書かれているだけになっています。一般に大士師・小士師といった分け方がされていますが、「救った」と書かれているように、士師として十分な働きをした人物だったと思われます。

 この何をしたか記されていない、しかし士師として記録されている二人の人物から、私たちは何を受け取るでしょうか?

2.何をもって価値をつけるか

 大士師と小士師と見た時、私たちはどちらに重きを置くでしょうか?また自分はどうありたいと思うでしょうか?「人を功績によって価値づけてはいけない」と考えることはできますが、「自分自身」についてはどうありたいと願っているでしょうか?名前だけ残されるより、どんな生涯を送ったのかまで覚えていられる方が良いと思ってしまわないでしょうか?「主が私を覚えてくださっている」「主が私の働きを喜んでくださっている」ことに満足できるでしょうか?

 宣教に例えると、一方の教会では一人の人が救われ、もう一方の教会では百人の人が救われたとします。百人が救われるのは嬉しいことです。しかし両方がないと一人は救われないのです。

 きっと人は百人救われた教会にどうやって宣教したのか聞き、「こんな良いニュースがあった」と言うでしょう。そこに劣等感や優越感、誇りが介入してくる弱さや罪を、人は持っています。

3.キリストに満たされて

 そういうものはパウロが無価値だと捨てたものです。コロサイ3章2節には「上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません」と書かれています。キリスト者が行うことは主に仕えることとして行われます。目に見える内容や結果を見て、評価し、されるものではありません。外ならぬイエス様の働きでさえ、信じない者にとっては敗北なのです。しかし神様にとってキリストは完全であり、右の座につかせる栄光をお与えになるものです。私たちはそのキリストを主としています。それならば、主を誇りとして、自分を誇ることを捨て去り、主だけが真に満たしてくださることを受け止め、その喜びを心から求めていきましょう。

2022.10.9

聖書箇所:創世記15章1~6節

説教題 :アブラハムは主を信じた。それが彼の義と認められた

説教者 :斎藤師

1.常識の中で生きてきたアブラハム

 アブラハムは神様によって選ばれ、故郷を離れて神様に従って生きてきました。それまでアブラハムは神様を信じていましたが、彼の侵攻は、自分の常識、自分が理解できる範囲内のことでした。そのアブラハムに、神様は彼の常識の理解を超えるものを見せられ、また、告げられました。

 1節には「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。『アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい』」と書いています。これらの出来事とは、アブラムが甥のロトを救い出した戦いのことを指しています。アブラムはメソポタミアの王たちという圧倒的な軍勢を、わずかな数の身内の手勢で勝利しました。アブラムはこの勝利が主の力によるとわかっていました。しかし戦いが終わった今、王たちが復讐に来ないとも限りません。勝利の後、甥のロトと別れアブラムは一人、マムレの樫の木の下に戻った時、アブラムは自分を守ってくれるものが何もないことに気付いて恐れたのです。

 アブラムはかつて、自分を守ってくれる存在である故郷や親族、父の家を離れ、主が言われたことばに従ってきました。そのため主はアブラムに「わたしはあなたの盾である」と言われたのです。

 アブラムはソドムの王に勝利した時もその報い(戦利品)を何も受けず、自分を富ませることをしませんでした。主は「あなたへの報いは非常に大きい」と言われました。しかしこの時はまだ、アブラムには子どもがいませんでした。当時において子どもがいないということは「祝福されていない」、つまり「報いが無い」のと同じでした。報いは非常に大きいと言われても、「その祝福を受け取る子どもがいない」アブラムが、2節から3節にわたる長い訴えをしたのも無理はありませんでした。

 そのアブラムに、再び主のことばが臨み、「あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない」と語られました。この時アブラムは八十歳、妻サライは七十歳です。アブラムは神様を信じていました。しかしそれはあくまでも彼の常識の範囲内でした。アブラムは信じることができませんでした。

 私たちもみことばを聞いてもそのまま信じることが難しいと思うことはないでしょうか?イエス様は「からし種ほどの信仰があるなら、『ここからあそこに移れ』と言えば移ります」と言われました。私たちもアブラムと同じです。神様がそう言われてもそのまま信じることができない不信仰な者です。

 そのため神様はアブラムを天幕の外に連れ出したのです。

2.神様の真実にひれ伏したアブラム

 アブラムは夜空の圧倒的な大きさにただ立ちすくみました。主は「星を数えられるなら数えなさい。」と言われました。満天の星空、創造の御業の大きさと、自分の存在の小ささに圧倒された時、アブラムは「あなたの子孫はこのようになる」と言われたのです。

 「アブラムは主を信じた。それでそれが彼の義と認められた」と6節に書かれています。「信じた」とされているこの言葉は「真実」という言葉から派生しています。つまり「アブラムは主を真実とした」ということです。アブラムは主が真実な方であることを信じたのです。それが実現するとかしないとか、それを信じることが自分にできるかできないかも問題ではありませんでした。アブラムがただ「神様と神様のことばは真実です。アーメンです」と言うほかになかったのです。

 1節で主が「わたしがあなたの盾である」と言われた時、アブラムは「アーメン」と言うことができませんでした。この時アブラムは神様ではなく「自分」を見ていたのです。けれども無限に広がる星々を造られたお方を前に、何もできない自分のままただひれ伏した時、彼は義と認められました。アブラムが義と認められたのは、アブラムが自分の理解や知識、常識すべて、すなわち彼自身を手放して、「ただ神様だけ、みことばだけが真実です」とひれ伏したこと故でした。

 パウロも「働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認めてくださる人には、その信仰が義と認められるのです」と書いています。私たちはイエス様を信じる信仰によって救われました。信じることさえ、祈ることさえ自分の力ではできない私たちのために、イエス様は聖霊を送ってくださいました。ただ神様のみこころがなるように、神様に栄光が帰されるように祈り求める時、神様は間違いなく祈りを聞いてくださり、祝福してくださいます。

2022.10.16

聖書箇所:士師記10章6~9節

説教題 :主の怒り

説教者 :片岡師

1.様々な偶像

 トラとヤイルの統治の後、イスラエルは再び偶像に傾きました。イスラエルは「様々な偶像」を拝みました。それは一神教から多神教文化に移り変わったということです。

 日本も同様の状況にあります。日本は異なる文化、宗教を受け入れる「寛容」とはつまり、日本文化に取り入れてしまうことです。人が良いと思うことをする、人中心社会、ヒューマニズムがあります。

 日本にはキリスト教がありますが、信じないのであれば捨てたのと同じです。イスラエルも、主だけを信じているのでなければ、信じていない、捨てたのと同じなのです。

2.主が怒られる

 主は怒る神です。神様に背き、御子に従わない者の上には神様の怒りがとどまっています。

 人間的怒りは罪ですが、神様の怒りは聖なる怒りです。正しい怒りは他者のための怒りです。

2022.10.23

聖書箇所:士師記10章10~18節

説教題 :取り去って

説教者 :片岡師

1.叫びと答え

 主の怒りによって苦境に立たされたイスラエルは主に叫びました。神様は神様を捨てたイスラエルの叫びを聞いて答えられました。その答えは辛辣なものでしたが、16節には「彼らが自分たちのうちから異国の神々を取り去って主に仕えたので、主はイスラエルの苦痛を見るに忍びなくなられた」と書かれており、神様はイスラエルを見捨てておられないことがわかります。

2.取り去った

 10節で罪を認めたイスラエルでしたが、15節では偶像を取り去り、悔い改めを実行しました。

 15節から16節にはイスラエルの三つの態度が書かれています。一つ目に「あなたが良いと思われるように」と、神様に主権を明け渡しました。二つ目に「救い出してください」と唯一の主に願い、三つ目に「異国の神々を取り去」り、悔い改めを実行しました。この悔い改めが真実であったことは、「主がイスラエルの苦痛を見るに忍びなくなられた」と書かれていることからわかります。

3.忍びなくなった

 イスラエルは悔い改めた後も、年月が経つと再び偶像崇拝をすることになります。神様はそのことをよくご存知でした。しかし、神様はその時の真実な悔い改めを受け入れてくださいます。

 私たちも、悔い改めの祈りをしても、時が経てば再び同じ罪を犯してしまうかもしれません。けれども主は人が心から悔いて、主にすがって身を委ねようとする時、答えて救いの手を差し伸べてくださいます。

 その義なる神様の愛とあわれみを知る時、「主の前に正しく生きたい」、「神様を悲しませることから離れたい」という思いが湧いてきます。それは、神様を信じる私たちのうちに御霊が住んでくださっているからです。御霊が与えてくださる思いです。その御霊に身を委ねましょう。

2022.11.6

聖書箇所:ヨハネの福音書8章1~11

説教題 :罪の無い者が石を投げなさい

説教者 :片岡師

1。告発する理由を作る

 人々に教えていたイエス様のもとに律法学者とパリサイ人が姦淫の罪を犯した女性を連れてきました。彼らはイエス様に、彼女をどうすべきか問いました。彼らがこのように問うたのはイエス様を告発するためでした。イエス様が彼女を赦すと言えば、律法に背く教えをする人物になります。裁くと言えば、憐みの教えと、』ローマ帝国が持つ死刑の権限に歯向かうこちになります。姦淫の女性は彼らがイエス様を告発するための道具とされていました。

2.誰もさばかなかった

 イエス様は「赦す」でも「さばく」でもなく第三の答え「罪の無い者が、まず石を投げなさい」と言われました。その結果、誰も石を投げずに彼らは立ち去りました。彼らは「自分にこの女性をさばく権利が無い」ということを知らされたのです。

 イエス様お一人だけが、この女性をさばく権利を持っていましたが、イエス様は「わたしもあなたをさばかない」と言われました。

3.罪を犯してはならない

 イエス様は女性をさばきませんでした。しかし、罪を軽視したわけではありません。「今は」さばかないのです。「これからは決して罪を犯してはならない」とはつまり執行猶予なのです。

 イエス様は女性が新しい歩みをすることを願われました。私たちもまたイエス様に罪を赦されました。私たちは赦された女性の「その後の歩み」をしているのです。

2022.11.13

聖書箇所:詩篇139章1~12

説教題 :知られる喜び、希望

説教者 :佐藤師

Ⅰ.主なる神について知ること

1.すべてを知っておられること

 ダビデは、神様がすべてを知っておられることを告白しています。「探る」とは徹底的に調べるという意味があります。

 主なる神様は、私たちが言葉を発する前の心を知っておられます。主はこの世界の創造者としてすべてを知っておられ、造られた私たちについてもすべてを知っておられます。主の主権と支配が私たちを取り囲んでいるので、私たちは神様の前から逃れられない、と著者は告白しています。

 しかし、私たちが自らを見失い、立ち位置がわからなくなる時、神様が私たちを救い出してくださるので、神様に知られていることは大いなる恵みなのです。

2,どこにでも居られる方

 続いて、神様はどこにでも居られる(偏在)ことを告白しています。私たちは主のみ前から逃れることはできません。「暁の翼」とは日の出の光が東から西へ一瞬で届くほど素早いことを表しています。またたとえ暗やみの中にいたとしても、神様から逃れることはできません。罪の道を歩むすべての人にとって、そこから主なる神様が救い出してくださるなら、それは恵みです。

3.私たちを造られた方

 主なる神様が全能であると告白しています。ダビデの誕生を主のわざとする観点から述べられています。いのちの誕生を単なる生命現象とする現在的視点に対する真の啓示です。「ひそかに」「地の深いところ」とは母の胎内のことです。神様の設計書には、誕生前から、胎内の初めからすべて詳細に記されているということです。

 ダビデは主なる神様を畏れて、神様を畏れない者との間に明確な姿勢をもって歩むと告白します。

Ⅱ.神を畏れ、敬い生活し、すべてを望む

 自分を主なる神の側に置き、忠誠を誓い、神様の恵みのご支配に身を置く。主なる神を知らない人々や、知っていても「名だけ」であり、神様ご自身のみ思いを全く知らない人々がいます。しかしそのような中にあって主に従う生活をすることで、結果的に誤りを指摘することになります。そして同時に正しい道へと導かれるのを願うのです。そして自らも救われた罪人であることを踏まえ、主イエス・キリストの前に謙虚になり、弱さを自覚し、主イエス・キリストのしもべとして、愛において、霊的品性において整えてください、と主イエス・キリストにある希望を告白する。「とこしえの道」とは、主イエス・キリストと共なる生活から続く、平和といのちの道です。

2022.11.20

聖書箇所:コロサイ書2章6~7

説教題 :キリストにあって歩む

説教者 :松元師

 聖書が語っている「教会」とはキリストを信じてキリストのことばに従って生きる私たち一人ひとりの集まりのことです。教会は私たち一人ひとりの信仰者の集まりであり、交わりなのです。その教会の強さやすばらしさはどこにあるでしょうか?それは大きな行事成功させることや教会員の数ではなく、教会員一人ひとりのイエス様との関係を生きているかどうかにあります。

 キリストにあって歩む、キリストにあって、キリストの中を、キリストとともに、キリストから離れずに生きる私たちでしょうか?「キリストにあって歩む」とはどういうことかを聖書から考えていきましょう。

Ⅰ.私たちが受け入れたキリストは、すべてのものの第一となられた主イエスです

 パウロは「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから」と言っています。「主キリスト・イエス」という呼び方には重大な意味がありました。イエス様のことを「単なる人間」「人間の偉い人」というような間違った教えが流行していました。その教えは知的に洗練された教えになっていました。しかしそれは「空しいだましごとのもの」でした。理路整然としたものであったかも知れませんが、人間が作り上げた「人間の教え」であり、裏を返せば「この世のもろもろの霊によるもの」でした。だからこそ人の欲求を満たし、人々に歓迎されるものでした。この異端の教えを広めている人は、キリストが神であることを認めませんでした

 そのためパウロはコロサイ教会の人々が信じ受け入れているキリストが「神であること」を強調して、わざわざ「主キリスト・イエス」と表現しているのです。

1.イエスは架空の人ではなく、歴史的人格を持ち、人々の間に住み、人々との具体的な人間関係を生きたお方です

 イエス様が語られた言葉や行ったみわざのうちに「目に見えない神が明らかにされ」ます。そればかりでなく「すべてのものをお造りになり、すべてのものはこの方のために造られ」ました。そしてすべての被造物より一番最初に居られた方であり、人間もこの方によって成り立っています。

2.イエス様は「教会の主である方」です

 イエス様は創造の主であるだけでなく、救いにおいても主であり、教会の本当の主人です。イエス様と交わり、イエス様のことばを聞き、イエス様の全ての行動を見ていたら、そこには神様ご自身が現わされていますこの方は死者の復活に先立ってよみがえり、私たちに永遠のいのちを与え、私たちの現実のすべてを導いておられます。ですから教会の主、教会の主人はイエス様に外ならないし、イエス様に従うことこそ喜ばれる教会を建て上げることなのです。

Ⅱ.キリストにあって歩むために、私たちにとって必要なことを述べた四つの言葉

 一つ目はキリストの中に根差すことです。植物が育ち、実を結ぶためには、土の中に深く根を張り、土の中の養分や水分を吸収していく必要があります。「根っこ」の大切についてマタイ13章の「種まきのたとえ」触れられています。表面的なことではなく「根っこ」をきちんと持っている信仰が大事なのです。

 二つ目はキリストにあって建てられることです。土台であるキリストにしっかりと結びついた建物、それがキリスト者の生き方なのです。イエス様が言われている大切なことはみことばを聞いて行うか、それとも聞いても行わないか」の対比です。みことばに聞き、キリストに対する正しい理解、信仰生活を送っている人が堅固な家を建てている状態なのです。

 三つ目は教えられたとおり信仰を堅くすることです。「堅くする」とは繰り返す訓練を意味する言葉が使われています。またこの言葉は受け身型で書かれています。自分が気合を入れたり必死で努力するというより、キリストと毎日交わっていると、イエス様の力で私たちの信仰を堅くしていってくださる、ということです。自分の信念を曲げないとか、頑なになっていくという意味での堅さではありません。全く神様により頼んでいる、神様から生み出される堅さです。

 四つ目は溢れるばかりに感謝することです。キリスト教信仰は、神様との人格的な交わりが大事なことですから、感謝がその関係を深めることは当然の結果です。夫婦でも親子でも友人でも、小さなありがとうをたくさん言い合える中で、愛情は育ちます。この最後の言葉は直訳すると「感謝に溢れなさい」であり、主体的・積極的に関わっていく能動態の動詞が使われています。感謝は積極的に、心から表現すべきなのです。

 迫害や試練の中にいたクリスチャンたちはなぜ喜べたのでしょうか?なぜ私たちより厳しい状態にあったクリスチャンたちは喜べたのでしょうか?それは1章12節の中で「光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった」からです。そのような資格の無い者であるのに、自分のような者がどれほど神様に愛され、素晴らしいもんを与えられているか。それを知っている人は思わず感謝が溢れるのです。

 

 以上のようにキリストを中心として歩むことができる人たちが集められた教会なら、その教会全体が必ず守られます。キリストにつながって「根っこ」をちゃんと張っていること。キリストにあって建てられていること。聖書で教えられたとおりに堅く信仰を持っていること。キリストがしてくださった恵みを覚えて感謝を忘れないこと。それらを守って、キリストにあって歩む教会であることを願います。

2022.11.27

聖書箇所:イザヤ書53章1~12

説教題 :罪を負いとりなしをする者

説教者 :片岡師

1.罪を負う

 人々は「彼」がさばかれるべき存在であると捉えました。けれども、実際には真逆でありました。私たちこそが、神様に罪を犯し、さばかれるべき存在であり、加害者でした。罪を犯しているということは、神様に対する加害者です。

 新約の時代の人々は救い主を求めていました。しかし、モーセやダビデのような、国を再興するようなリーダーでした。それは「自分たちは被害者である」という発想です。けれども、神様の前に罪を犯し、赦されなければならない加害者というのが、私たち人の姿でした。

 6節には「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた」と書いています。「それぞれ自分勝手な道に向かって行った」。これが全ての人が侵している、根本的な罪です。

2.とりなしをする

 「彼」キリストは罪を負うことで贖(あがな)い、とりなしをしてくださり、今も生きてとりなしをしていてくださいます。救いは罪を犯した側によってなされたのではなく、正しいしもべイエス様によって、解決の道を与えてくださいました。

 イザヤ53章で一貫して書かれている真理は、罪があるのは「私たち」であったが、その解決は主が与えてくださったということです。私たちは、罪を犯す加害者として負っていた罪を担われ、とりなされた存在です。クリスチャンはそのアイデンティティをなくしてはなりません。

3.負われ、とりなされた者

 今日は、私たちが何者であり、キリストが何者かを覚えたいと思います。

 キリストは罪が無いのに罪人とされ、十字架に架かられました。イエス様は逃げたり抵抗することなく受け入れられました。それはなぜでしょうか?人々の救いを求める愛と、主のみこころをなす神様への愛と従順ゆえです。イエス様にとって何より恐ろしかったのは、神様との関係が断たれることでした。イエス様はこの何より恐ろしいことを受け入れてくださったのです。今や私たちは何も恐れることはありません。キリストによって私たちは主のものとされています。その恵みに感謝しましょう。

 贖いのわざはすべての人のためになされましたが、受け入れなければ意味がありません。キリストがしてくださったように、私たちも祈りと行動をもってとりなしをしましょう。人をさばくのではなく、人々のため、また兄弟姉妹のためにとりなしましょう。

2022.12.4

聖書箇所:ルカの福音書1章26~38節、マタイの福音書1章18~25節

説教題 :聖霊による子

説教者 :片岡師

 今日は受胎の箇所です。マリヤが聖霊によってイエス様を身ごもった箇所ですが、多くの人が「キリスト教が信じられない」とつまずく箇所です。信じる私たちにとってもその方法を説明することはできません。ただこの世界を造られた神様にできないことはありません。その事実が私たちの救いには不可欠です。

1.マリヤの信仰

 御使いはマリヤに「おめでとう恵まれた方。あなたは身ごもって男の子を産みます。その子をイエスと名付けなさい」と言われました。マリヤは、「まだ男の人を知らないのにどうしてそのようなことがあるのか」と戸惑っていました。御使いはマリヤの質問に答えましたが、マリヤが抱くであろう今後の不安、どうなるかについては何も保証する言葉をかけていません。しかしそれに対しマリヤは「私は主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように」と答え、妊娠を受け入れました。はしため、つまり奴隷です。奴隷は主人のことばに従うものです。このことをヨセフに言っても信じてもらえないかもしれません。姦淫を犯したとして石打にされるかもしれません。マリヤが妊娠を受け入れるということは、同時に人に理解されず捨てられ、死ぬ危険性を受け入れたということです。

2.ヨセフの信仰

 マリヤがヨセフに何と伝えたかはわかりませんが、ヨセフが考えていることがマリヤの妊娠についてだけなので、おそらく御使いに語られたことをヨセフには言わなかったのでしょう。ヨセフは正しい人だったので、マリヤとこのまま一緒になることは考えられませんでした。一方でマリヤをさらし者にすること、つまり皆に石打にされることも受け入れられず、離縁して去らせようとしました。マリヤが生きる道を見出そうとしたのです。単に律法を重視しそれに従って生きていただけでなく、憐み深さがありました。正しい人であった、というのはそういうことです。

 そうしてヨセフが思い巡らしながら眠っている時、夢で主はヨセフに御心を示されました。夢の内容とは、マリヤの子が聖霊による子であること。その子をイエスと名付けること。その子は民を罪から救う者になることです。この御使いによる神様のことばによって、ヨセフは人の理屈ではなく神様の理屈、摂理に従ってマリヤとその子を受け入れました。

3.神の子キリスト

 御使いが一人の処女のところに来た。子を産むまでヨセフは彼女を知ることはなかった。これらはイエス様が確かに聖霊による子であり、神様の子であることを記述しています。神様はご自分の子をマリヤとヨセフを通して世に送り出されました。

 神様はご自分の愛する子を人にお委ねになりました。マリヤの受胎はそんな信じられないみわざがなされたことを世に示すものです。それは、神の愛によるのです。大きな苦悩と信仰と、神様の愛を覚えましょう。神様のことばに信頼をおきましょう。

2022.12.11

聖書箇所:ルカの福音書2章25~35

説教題 :心のうちがあらわになる

説教者 :片岡師

 今日はイエス様が何者であって何をなさるお方なのかを学びたいと思います。

 イエス様は救いであり、光であり、栄光でありますが、しかし人を倒したり立ち上がらせる。そして「人々の反対に合う方である」とシメオンは言いました。それは「多くの人の心のうちがあらわになるため」です。

 聖書では心を重視しています。心を尽くして主を愛すること。行動に現れる罪は心からでていることなどを教えています。エレミヤは人の心について「何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい」と記しています。

 神様は私たちの心を見通しておられます。しかし渡すたちは自分の心をいったいどれくらい知っているでしょうか?自分が抱く感情・思いがどこから湧き、何を目指しているか理解しているでしょうか?

 人の心は自分に都合よくできています。それは自分自身を守るためであったり、世で生きるためかもしれません。けれども、イエス様は人の心のうちの思いを明らかにされるお方であると書かれています。イエス様の前では、私たちは取り繕うことができません。聖いイエス様の姿は、私たち人間に自らの罪を指摘するのです。

 イエス様は人々に「悔い改めよ」と宣教を始められました。人の内には罪があると指摘されたのです。そして悔い改めるなら、赦しがある、救いの道があると語っておられるのです。罪を認めてさばかれよといっているのではないのです。

 人はこの世では自分をだまさなければ生きていけないのかもしれません。自分を良く見せるように努力しなければ生きられないのかもしれません。でも御国では違います、御国では隠し事はなく、互いに傷つけ合うこともなく、互いにその存在を心から愛する交わりがあります。そして私たちは御国の民なのです。世に在って御国の民として生きるのがクリスチャンです。イエス様が私たちの心をあらわにする、それは救いのわざです。悔い改めなければならないのです。罪があらわになり悔い改める時、神様は恵みを与えてくださいます。

 ローマ書2章4~5節には「それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことを知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています」と書いています。神様のいつくしみ深さとは、罪や悪を黙認して「あなたはそのままで良いよ」というものではなく、「人を悔い改めに導くものである」ということです。人を回復に導く。それこそが神様のいつくしみであr、忍耐と寛容なのです。

 あなたの心のうちには何があるでしょうか?目を背けているものはないでしょうか?御霊が気づかせてくださり、悔い改めができるよう祈ります。

2022.12.18

聖書箇所:ローマ書5章1~11

説教題 :神との和解

説教者 :片岡師

1.信仰によって与えられたもの

 信仰によって義とされた私たちは、それによって何が与えられたのか?それは失望に終わることのない希望です。その希望は、苦難の忍耐から生み出されていくものです。

2.神の愛

 パウロは再びキリストの恵みを語り始めます。その内容は、「私たちが罪人であった時に、私たちのために死なれた」という事実です。

3.神との和解

 キリストによって与えられた神との和解は、神の国から与えられた客観的な事実です。それゆえ、私たちがそこに不安や疑いをはさむ余裕はありません。

2022.12.25

聖書箇所:ルカの福音書2章1~20

説教題 :この方こそキリストです

説教者 :片岡師

1.彼らのいる場所がなかった

 キリストは神の子でありながら、全ての人のために生まれるために、貧しいところでお生まれになりました。

2.羊飼いたち

 羊飼いはユダヤ教の律法を守れないため、蔑まれ、差別されていました。しかし社会的に軽蔑された羊飼いたちに、神様はキリストの誕生を示されました。

3.急いで行った

 喜びの知らせを受けた羊飼いたちは急いで捜しに行きました。神様から示された時、人に求められることは、それを受け取り、行動することです。喜びの知らせを受け取り、主を賛美しましょう。

2023.1.1

聖書箇所:ヨハネの福音書8章31~47

説教題 :自分の身をどこに置くか

説教者 :片岡師

1.彼らが信じたもの

 ユダヤ人たちは自らを神の民、アブラハムの子孫と自負していました。そしてそれが彼らの保証でした。しかし、アブラハムの子孫とはアブラハムのわざを行う者であり、血縁関係を意味するものではありませんでした。アブラハムが行ったような信仰の問題なのです。アブラハムは御使いを歓迎しました。一方でユダヤ人たちはイエス様を殺そうとしています。その姿がまさに罪の奴隷となっているのであり、アブラハムの子孫とは言えないものになってしまっているのです。

 ユダヤ人たちは伝統・民族・儀式などを妄信していました。アブラハムのわざを行う者となっているか。気づかぬうちに神のことばよりも拠り所にしているものがないか。もしあるとすれば、私たちは自らを見つめなおさなければなりません。

2.神のことばに留まる

 イエス様は続けて、ユダヤ人たちに悪魔の子であると指摘されました。イエス様を殺そうとしていることがその証拠となりました。罪のないイエス様が言うことは真理であり、それを受け入れない理由はありません。それを拒むとすれば、罪の奴隷となっているからです。神ではなくサタンの支配下にあるからです。

 ユダヤ人たちがイエス様を受け入れられなかったのはなぜでしょうか?知恵や理解が足りないのではありません。理解することを拒んでいるのです。ユダヤ人たちはイエス様を殺そうとしました。自分に語りかける神様のみことばを拒否し、自分勝手に生きようとしたり、誘惑によって神様のことばを曲げてしまう。それは悪魔によって罪に支配された姿です。

 悪魔の働きから逃れ、真理を受け取るにはどうすれば良いのでしょうか?自分の奴隷状態を知り、そこから抜け出す力が自分には無いことをしることです。神の子として世に来られたキリスト、この方だけが私たちを罪の奴隷から解放してくださいます。

2023.1.8

聖書箇所:ヨハネの福音書8章48~59

説教題 :当然なこと

説教者 :片岡師

 イエス様は五千人の給食や様々なしるしを行い、天から遣わされた神の子であると語ってきました。それでもユダヤ人たちは信じずに「あれはヨセフの子イエスではないか」と言っていました。

1.サマリヤ人と呼ぶ

 ユダヤ人たちはイエス様に「あなたはサマリヤ人で悪霊に憑かれている」と言いました。それは異端者だと言っているのと同じことでした。前回の箇所でイエス様はユダヤ人たちに、あなたがたは悪魔から出ている、と言われていましたので、それをそのまま言い返している形です。

 何をもって、神から出たか、悪魔から出たかを判断することができるでしょうか?それはイエス様がユダヤ人たちに答えられた、イエス様ご自身の信仰姿勢から見ることができます。

2.誰の栄光を求めるのか

 イエス様はご自分の栄光を求めず、父なる神様の栄光を求めていました。

 教会には様々な奉仕があります。それらは本質的には神様に献げる奉仕としてなされます。私たちはその中で、人を通して主の恵みに与っているのです。ですから私たちは主に感謝し、人に感謝し、神様に栄光を帰すのです。

 主に逆らう人は主に栄光を帰しません。ユダヤ人たちは、自分たちは神の民で、正しい、祝福された者であると考えていました。しかし、神中心ではなく、自分中心の考えになっていました。イエス様の論調で言えば、ユダヤ人たちは自分の栄光を求めていたことになります。

 イエス様はここで再び、いのちと死について語りました。それは肉体的意味ではなく、霊的な意味でした。死ではなくいのちに至る道。それは「イエス様のことばを守ること」です。守り、従うとは、そのことばを覚えることです。覚えるためにはまず受け入れなければなりません。

3.わたしはある

 終わりにイエス様は再度、自分が神であることを語りました。「わたしはある」。それは神様がモーセに語った名前です。神様はいつから居た、いつまで居るとは言えない永遠の存在です。そしてイエス様もまた居(お)られるお方なのです。

 イエス様の自己開示がありましたが、ユダヤ人たちは信じず、殺そうとしました。イエス様が言われたことは彼らにとって受け入れることができなかったからです。自分が罪人であること、信じてきたものを捨てることが恐ろしかったのかもしれません。

 イエス様を信じ受け入れ、従うなら、人は罪の奴隷から解放されます。そして神のかたちとして造られた本来のかたちを取り戻し、主を賛美し、主によって満たされることができるのです。

2023.1.15

聖書箇所:ヨハネの福音書9章1~23

説教題 :あの人についてどう思うか

説教者 :片岡師

1.この人はなぜ盲目か

 苦難や困難は罪が原因にあると考えられていました。それで弟子たちは、彼が罪を犯したからか、彼の親が罪を犯したからかと問い

ましたが、イエス様の答えは原因ではなく、神のわざが現れるため、という目的でした。

2.安息日のいやし

 イエス様は明らかに安息日と知って事を行っていました。そこにはイエス様の目的がありました。イエス様は人間回復の救い主として来られました。

 安息日の目的は人が主の安息に入ることにあります。障害がある人がいるならば、癒されることが、イエス様にとって当然のことでした。

3.あの人についてどう思うか

 イエス様が罪人か預言者かで分裂が生じました。パリサイ人たちは癒された盲人に尋ねました。彼はパリサイ人たちがイエス様を訴え、殺そうとしていることを知ったことでしょう。彼らを恐れて否定することも、言葉を濁すこともしませんでした。「私は私を癒してくれたあの人を否定することはできない。あの癒しのわざのゆえに私はイエス様を証言せざるを得ない」。彼の証言はこのように言っているようです。

 私たちの証言はこのようなものであるでしょう。証しとは、神様が私に働いてくださったこと、神体験を人に伝えることです。

 あの人についてどう思うか、どう語るか。それは、主は私に何をしてくださったかを語ることです。今週も主の恵みを思い巡らし、みことばを覚えてまいりましょう。

2023.2.5

聖書箇所:士師記11章1~11

説教題 :エフタの登場

説教者 :片岡師

1.追い出されたエフタ

 エフタはギルアデの子で勇士でしたが、遊女の子ということで家から追い出されました。そしてトブの地に逃れ、ならず者のリーダーとして過ごしていました。逃れ、とあることから見みると、エフタにとってその家は危険なところでありました。

 エフタは神様への信仰や知識はありましたが、十分ではなかったように思われます。

2.要請を受けるエフタ

 そのエフタに、ギルアデの長老たちがアンモン人との戦いのためにかしらになってほしいと頼みに来ました。はたから見ればとても身勝手な要求に見えます。しかしエフタはこの要請を受けることにしました。「主が彼らを私に渡してくださるなら」かしらになろう、というところに、エフタの信仰が見られます。

 エフタは自分には責任がない身勝手な理由で家族に追い出されました。エフタは逃げましたが、必要な時には戦いました。エフタは自分の兄弟、民とは戦いませんでした。

 イエス様も自分の兄弟、民から受け入れられませんでしたが、民を救う戦いに勝利し、かしらとなられました。罪との戦いに勝利し、私たちに勝利を与えてくださったイエス様を、自分のかしらとしているでしょうか。

 最後に、神様は計画を成すお方です。人はエフタを追い出しました。エフタは自分の家族、民の所から離れて暮らしました。人の生活の中では様々な思惑や望みがありますが、神様が成そうとすること、神様の計画は、人の思いや計画を超えて実現します。主の計画が最善であり、主の知恵に勝るものはありません。主の前に自分の計画、願い、成し遂げたいことを手放すことはできますか?主の計画を受け取って主のはかりごとに参加させていただきましょう。私たちのかしらは主キリストです。

2023.2.12

聖書箇所:士師記11章12~28

説教題 :主が渡される

説教者 :片岡師

1.領土問題

 イスラエルとアンモン人の争いは、自国の領土の問題とも言えます。今日の日本でもいくつもの領土争いを抱えています。戦争が起きる理由には土地、資源が挙げられます。

 エフタは先の歴史とともにイスラエルが占領した地は神、主が与えてくださった地であるゆえに、イスラエルが占領するのは正当なことだと主張しました。

2.主が渡される地

 私たちクリスチャンの住む地はどこでしょうか?それは天であり、神様ご自身です。地上の生を生きるクリスチャンは、与えられた神のみことばを行い、正しく用いることでこれらを守ることができます。

 最後にエフタは、「審判者である主がさばく」と言いました。主は審判者である主と主のさばきに希望を持ちましょう。

2023.2.19

聖書箇所:士師記11章29~33

説教題 :エフタの誓願

説教者 :片岡師

1.エフタの境遇

 エフタは今でこそ代表として立っていますが、もともとは家族・民族を追い出された人でした。そのためこの戦いにあって心から頼る相手は主しかいなかったのです。大きな犠牲を払うことで安心したかったのかもしれません。

2.エフタの聖書理解

 エフタは明らかに人を全焼のいけにえとすると誓っていました。それは申命記12章を見ると主が忌み嫌われる行いです。主に頼ることは信仰です。しかし、人を献げることは御心に適ったことではありません。

3.誓願を立てる

 私たちにも誓っていることや思い込んでいることがあるかもしれません。気づかずに犯し続ける罪ほど恐ろしいものはありません。私たちはそのような過ちを、主が与えてくださった御霊によって知らされたいと思います。

 間違った思いで主に祈ったり、誓ったりしていないでしょうか?何が良い事で御心に適ったことなのか、みことばから学んでいきたい。

2023.2.26

聖書箇所:士師記11章34~40

説教題 :誓いを行う

説教者 :片岡師

1.誓ってはならない

 エフタは戦いに完全な勝利を得ますが、聖書ではそのことに深く触れません。むしろ、エフタの誓願の結果に焦点を当てています。

 エフタの誓願の箇所とあわせて、マタイの福音書5章でイエス様が「誓ってはいけません」と教えられた箇所が取り上げられます。イエス様は当時の詭弁的な教えに対する指摘というかたちで語られています。神に誓わなければ誓いが破られても良いのだ、という逃げ道が用意されていたということです。なぜそうまでして誓いを立てるのか。それは自己満足のためです。

 聖書で誓いは禁止しているのでしょうか?そうではありません。イエス様が言われたことは、言葉には真実を尽くせ、ということでしょう。イエス様は「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい」と言われました。

 はいと答えた私たちは、はいと答えた生き方をしていかなくてはなりません。

2.誓いの実行

 エフタは自分の一人娘をささげなければならなくなってしまいました。エフタは悲しみますが、娘からの「誓いどおりにしてください」という言葉もあって、二ヶ月の猶予の後に主にささげることにします。どんなに苦しいことになっても誓いを実行したエフタとその娘は、ある意味で本当に主を畏れていたと言えるでしょう。主に誓うことの重大さを知っていたのです。

 へブル11章32~34節ではエフタの名前が挙げられています。エフタは間違った誓いをしたかもしれませんし、間違った神理解があったかもしれません。それでも何より主を優先する思いがあったのではないでしょうか。それが「信仰の人」と数えられた理由ではないかと思います。

3.今の私たちがささげるもの

 私たちは何をささげるでしょうか?パウロはローマ書6章13節で「-死者の中から生かされた者としてあながたが自身を献げ・・・」と語っています。i今私たちはパウロの言葉から示されたいます。自分自身をささげなるようにパウロは言っているのです。自分自身をささげた生き方を通して、主に礼拝を献げてまいりましょう。

2023.2.26

聖書箇所:士師記11章34~40

説教題 :誓いを行う

説教者 :片岡師

1.誓ってはならない

 エフタは戦いに完全な勝利を得ますが、聖書ではそのことに深く触れません。むしろ、エフタの誓願の結果に焦点を当てています。

 エフタの誓願の箇所とあわせて、マタイの福音書5章でイエス様が「誓ってはいけません」と教えられた箇所が取り上げられます。イエス様は当時の詭弁的な教えに対する指摘というかたちで語られています。神に誓わなければ誓いが破られても良いのだ、という逃げ道が用意されていたということです。なぜそうまでして誓いを立てるのか。それは自己満足のためです。

 聖書で誓いは禁止しているのでしょうか?そうではありません。イエス様が言われたことは、言葉には真実を尽くせ、ということでしょう。イエス様は「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい」と言われました。

 はいと答えた私たちは、はいと答えた生き方をしていかなくてはなりません。

2.誓いの実行

 エフタは自分の一人娘をささげなければならなくなってしまいました。エフタは悲しみますが、娘からの「誓いどおりにしてください」という言葉もあって、二ヶ月の猶予の後に主にささげることにします。どんなに苦しいことになっても誓いを実行したエフタとその娘は、ある意味で本当に主を畏れていたと言えるでしょう。主に誓うことの重大さを知っていたのです。

 へブル11章32~34節ではエフタの名前が挙げられています。エフタは間違った誓いをしたかもしれませんし、間違った神理解があったかもしれません。それでも何より主を優先する思いがあったのではないでしょうか。それが「信仰の人」と数えられた理由ではないかと思います。

3.今の私たちがささげるもの

 私たちは何をささげるでしょうか?パウロはローマ書6章13節で「-死者の中から生かされた者としてあながたが自身を献げ・・・」と語っています。i今私たちはパウロの言葉から示されたいます。自分自身をささげなるようにパウロは言っているのです。自分自身をささげた生き方を通して、主に礼拝を献げてまいりましょう。

2023.3.5

聖書箇所:ヨハネの福音書10章1~6

説教題 :ことばを理解する

説教者 :片岡師

1.何を語ったのか

 羊飼いたちは身を挺して羊を守りましたが、盗人や強盗たちは自分の利益のために羊を盗みます。この盗人や強盗はパリサイ人たちを表しています。パリサイ人たちは目が開かれているどころか、羊を食い荒らす盗人や強盗である、と非難しているのです。旧約聖書には、良い牧者と、羊を食い荒らす偽の牧者のことが書かれている箇所があります。パリサイ人たちは指導者の立場に立っていますが、羊を散らし、養わない悪い牧者になってしまっていると指摘しているのです。イエス様は彼らの目が開かれ、悔い改めるためにこのことを語られました。

 9章には元盲人のことが書かれています。この元盲人は、囲いの外で彷徨っていた羊でしたが、イエス様が囲いの中に連れ帰って来た羊です。しかしこの羊を、パリサイ人たちは神殿から追い出したのです。そのことでイエス様は「あなたがたは盗人、強盗だ」と指摘されたのです。

2.なぜ理解できなかったのか

 パリサイ人たちはイエス様のたとえを理解できませんでした。なぜ理解できなかったのでしょうか?それは羊と羊飼いのたとえに馴染みが無かったからではありません。目が開かれていると思っている彼らの目が、実は閉じているからです。それは高慢のため、自分は正しいという思いから理解できないのです。

 まさか自分が羊を奪う行いをしているとは想像がつかなかったのです。罪に、サタンに囚われているとはそういうことなのです。

 「目が開かれる」とはなんでしょう?イエス様を信じ、意味を尋ねるものが「目を開かれる」のです。「主よ、教えてください」という者が目が開かれた者、耳が開かれた者なのです。

2023.3.12

聖書箇所:ヨハネの福音書10章7~21

説教題 :一つの群れ、一人の牧者

説教者 :片岡師

1.わたしは門です

 羊飼いはときに、囲いの入口に横になり、自らが門となりました。

 主の囲いに入るとはなんでしょう?それは安息の地に入れら、主に養われることです。そして神様とより良い関係を築いていきます。主の囲いに属することで、安心して出入りし、牧草(主の養い)を得るようになります。 エゼキエル34章31節

2.わたしは良い牧者

 偽の牧者→羊を滅ぼす

 良い牧者→いのちを与える

 良い牧者は羊を導きます。ある羊は迷い出ています。しかし羊自身は、自分が迷っていると思わない、自由に歩いているだけだと思っているかもしれません。しかし羊飼いが迷った羊を呼び、その声を聞いて、自分が今まで迷い出していたことを知るのです。

 そのように、キリストはいのちがけで私たち人間を御許へ導き入れてくださったのです。

3.一つの群れ、一つの牧者

 イエス様は「この囲いに属さない羊がいる」と言われました。それはイスラエル人ではない、異邦人たちであり、私たちもその一人です。

 キリストはイスラエル人限定の救い主ではなく、世界の救い主です。

 イエス・キリストが私たちの牧者です。キリストについていく羊として私たちは一つです。一人の牧者、一人の群れなのです。

 そしてキリストの群れの一員とされた私たちには、福音が委ねられています。

2023.3.19

聖書箇所:ヨハネの福音書10章22~30

説教題 :宮きよめの祭り

説教者 :片岡師

1.宮きよめの祭りの経緯

 ギリシア文化を愛するアンィオコス・エピファネス(シリヤ)王によって、神殿は徹底的に汚されました。主の神殿をゼウスの神殿に変え、ユダヤでは「汚れたもの」とされていた豚をいけにえとしてささげられたりもしていました。

 そこでマカベウスとその兄弟たちが立ち上がり、およそ六年の戦いを経て勝利し、神殿は清められました。この聖別を記念して、宮きよめの祭りが始められました。

2.はっきり言ってください

 ソロモンの回廊は、祈ったり、ラビ(教師)などは教える場所となっていました。

 パリサイ人たちは、この大勢人のいる場所で公に宣言させて、イエス様を陥れようとしました。自分を神とすることで、イエス様を「神を冒涜する者」としたかったのです。

3.キリストによる宮きよめ

 イエス様が行った「宮きよめ」とよく知られる箇所があります。ヨハネ2章13から22節です。そこでイエス様は「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる」と言われています。これはご自分(キリスト)のからだのことを指して言われていました。

 教会は神様との交わりの場所です。つまり、イエス・キリストという神殿を通して、人々が神様と交わるようになるのです。

 イエス様は28~30節で、イエス様に属する羊のことで、四つのことを宣言されました。

 一つ目は、羊に永遠のいのちを与えるということ。

 二つ目は、誰もキリストから羊を奪い去らないこと。

 三つ目は、羊はすべてにまさって大切であること。

 四つ目は、誰も父の手から羊を奪いされないということです。

 「わたしと父は一つです」と、最後に言われました。神様と御子キリストが一つであるという事実と、そしてそのように、私とキリストも一つと結ばれるように。そしてさらに一つの群れとして主を信じる信仰によって一つとなるようにと祈っておられます。

2023.3.26

聖書箇所:ヨハネの福音書10章31~42

説教題 :行いから相手を知る

説教者 :片岡師

1.神を冒涜したか

 ユダヤ人たちはイエス様を石打ちにしようとしました。つまり殺そうとしていました。そこでイエス様は「わたしのどのわざのために石打ちにするのか」と聞きました。ユダヤ人たちは、30節でイエス様が言われた「わたしと父は一つです」と言ったことで、「自分を神とした」。つまり「冒涜のため」だと言いました。

2.信じられる理由

 イエス様が神の子、救い主だと言える理由があります。イエス様が行われた「わざ」は疑問の余地がないものだったのです。今日の箇所の直前には盲人のいやしがあります。その他にも悪霊を追い出したり、病をいやしたり、五千人の給食などの「わざ」を行われました。

3.多くの人々がわざを見て信じた

 現代の私たちはキリストの「わざ」を知って信じました。キリストの「わざ」とは十字架であります。そして十字架の「わざ」によって救われた私たち自身が、キリストの「わざ」を表す存在なのです。